小田原城・馬出門

小田原城・馬出門

小田原城の大手筋(正面)に位置する、二の丸を守る重要な門が馬出門(うまだしもん)。小田原市の「史跡小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想」で二の丸から本丸に至る往時の登城ルートの復元整備が行なわれていますが、平成21年に復元されたのが馬出門です。門をくぐると修景整備が行なわれた馬屋曲輪(うまやくるわ)です。

小田原城の大手筋を守備する重要な門

小田原城・馬出門

江戸時代の初期から現在の場所に存在し、老中首座・稲葉正則(いなばまさのり=春日局の孫)が藩主時代の寛文12年(1672年)に桝形形式の門に改修されています。
馬出門と内冠木門という二つの門があり、周囲を石垣と土塀で四角に囲んだ桝形形式。
この桝形スタイルは続いて登場する銅門(あかがねもん)と同じです。

周囲の土塀には三角形の鉄砲狭間と長方形の矢狭間が1間(約1.8m)間隔で開けられ、さすがに小田原城の大手口(正面)だけに、太平の世に建設されながらも実戦的な防備が備わっています。

馬出門は、柱は欅(ケヤキ)、屋根の下地は椹(サワラ)、土塀の控柱は栗(クリ)、土塀の柱などには檜(ヒノキ)を使用と江戸時代の姿を忠実に復元。
瓦は発掘で出土された瓦をもとに復元という凝りようです。

馬出門を入ったところはまだ二の丸ではなく馬屋曲輪(うまやくるわ)。
小田原城の大手口(正面)を守備する重要な曲輪で、往時には大腰掛(登城者の待機所)や馬屋、二重隅櫓などの建物があり、小田原石を用いた切石敷井戸も掘られていました。
現在、馬屋曲輪は、修景整備で、江戸時代の姿が想像できるようになっており、二の丸観光案内所が建っています。

小田原城は徳川将軍家の京への上洛の際に宿所ともなっていましたが、将軍家の馬は馬屋曲輪にあった馬屋に繋がれていました(小田原藩の馬屋は二の丸の西側にありました)。
つまりは将軍家専用の馬屋から馬を出す門というのが名の由来です。
ただし馬屋と大腰掛は元禄16年11月23日(1703年12月31日)の元禄大地震で失われ、以降再建されていません。

馬出門前の堀には「めがね橋」と呼ばれる馬出門土橋が架かっています。
横から眺めないと「めがね橋」であることに気づかないので、お見逃しなく。

小田原城・馬出門
『正保城絵図』に見る馬出門
名称 小田原城・馬出門/おだわらじょう・うまだしもん
所在地 神奈川県小田原市城内6-1
関連HP 小田原城公式ホームページ
電車・バスで JR小田原駅から徒歩10分
ドライブで 小田原厚木道路小田原東ICから約5km、荻窪ICから約3km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 小田原城総合管理事務所 TEL:0465-23-1373
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

小田原城址公園

北条早雲をはじめとする後北条氏が、5代96年におよぶ栄華を極めた小田原城。後北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、小田原高校の建つ八幡山に詰めの城を配しました。豊臣秀吉の小田原攻めに対抗するために周囲9kmにも及ぶ土塁と空堀の外郭を築き、

小田原城・銅門

小田原城・銅門

「日本100名城」に選定される小田原城二の丸の表門が銅門(あかがねもん)。馬屋曲輪(うまやくるわ)から二の丸へ登城する途中にある門で、現在の門は平成9年の復元。石垣による桝形(ますがた)、内仕切門(一の門)と渡櫓門(わたりやぐらもん=二の門

小田原城・常盤木門

小田原城・常盤木門

高い石垣で囲まれた小田原城本丸の正面に位置するのが常盤木門。本丸の出入は東の常盤木門と北側の鉄門(くろがねもん)という2つの門を使用していましたが、常盤木門が大手側(正門)にあたり、重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固

 

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