嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に江戸幕府とアメリカ合衆国が横浜村(現・横浜市)の海岸近くで日米和親条約を締結しました。その歴史的な場所が、現在の大桟橋通りが海岸に出るところ、大さん橋ふ頭の付け根に園地として残され、横浜開港資料館前の園地に「日米和親条約締結の地」碑が立っています。
下田と函館の開港がこの地で決定!
日米和親条約締結にあたった日本側全権は儒学者の林復斎(はやしふくさい=大学頭)、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry)です。
林復斎は、幕府の命で対外関係史料を国別・年代順に配列した史料集『通航一覧』(350巻)を編纂したことから、老中首座・阿部正弘(あべまさひろ=福山藩第7代藩主)から任命日本側全権に任命されています。
歴史的舞台となった応接所があったのは、武蔵国久良岐郡横浜村字駒形、現在の横浜開港資料館のあたり。
英文における正式名称は「Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan」(アメリカ合衆国と日本帝国間の平和および修好の条約)で、「Treaty of Kanagawa」と通称されています。
日本では、神奈川条約とも呼ばれています。
ペリーは前年の嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀に入港し、日本側に大統領の親書を手渡して開国を要求。
嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて神奈川沖に停泊し、条約締結を迫ったのです。
ペリーが浦賀や神奈川沖にやって来たのは、事前の情報収集で、長崎だとオランダの妨害にあう可能性があるからと判断したからともいわれています。
日本側は急遽、応接所を用意しています。
なお、細則に関しては伊豆国・下田(現・静岡県下田市)の了仙寺で嘉永7年5月22日(1854年6月17日)に締結された下田条約(全13ヶ条)で決められています。
米国総領事の日本駐在に関しても、日米和親条約の日本文では「両国政府においてよんどころなき儀」があった場合に駐在・止宿できると表現されていますが、英文では「両国政府のいずれか一方がかかる処置を必要と認めた場合」となっていたため、紛糾することになりますが、下田に領事館が開かれ、開国の流れは、日米修好通商条約(通商条約の締結)へと発展していきます。
『米国使節彼理提督来朝図絵』に見る 横浜村
沖合に8隻の黒船が描かれる当時の横浜村の光景。
突貫で築かれた応接所は、後の英国領事館(現在の横浜開港資料館)の建つ場所。
ペリーは幕府に電信機2台を贈呈し、応接所と洲干弁財天前の民家(吉右衛門宅)に電線を架設して、通信実験を行なっています。
絵図の左側に描かれた線はその電線。
応接所の左右には幕を張り、左側は小倉藩が、右側は松代藩が背後を含めて警護していました。
左の手前にあるのは野毛渡し場(桜木町駅あたりで大岡川を渡るための船)。
日米和親条約(第九亜墨利加条約)
約条
一 亜墨利加合衆国と帝国日本、両国の人民誠実不朽の親睦を取結ひ、両国人民交親を旨とし、向後可守ヶ条相立候為め、合衆国より全権マテュカルブレトぺルリーを日本に差越し、日本君主よりは全権林大学頭、井戸対馬守、伊沢美作守、鵜殿民部少輔を差遣し、勅諭を信して双方左之通取極候。
第一ヶ条
一 日本と合衆国とは其人民永世不朽の和親を取結ひ、場所人柄の差別無之候事。
第二ヶ条
一 伊豆下田、松前地箱館の両港は、日本政府に於て、亜墨利加船薪水、食料、石炭、欠乏の品を日本人に而調候丈は給候為め、渡来の儀差免し候。尤下田港は約条書面調印之上即時相開き、箱館は来年三月より相始候事。
一 給すへき品物直段書之儀は、日本役人より相渡可申、右代料は金銀銭を以可相弁候事。
第三ヶ条
一 合衆国の船、日本海浜漂着の時扶助致し、其漂民を下田又は箱館に護送致し、本国の者受取可申所持之品物も同様に可致候。尤漂民諸雑費は、両国互に同様の事故不及償候事。
第四ヶ条
一 漂着或は渡来の人民取扱の儀は、他国同様緩優に有之、閉籠め候儀致間敷、乍併正直之法度には伏従致し候事。
第五ヶ条
一 合衆国の漂民其他の者とも、当分下田箱館逗留中、長崎に於て唐和蘭人同様閉籠窮屈の取扱無之、下田港内の小嶋周り凡七里の内は勝手に徘徊致し、箱館港の儀は追て取極め候事。
第六ヶ条
一 必用の品物其外可相叶事は、双方談判の上取極め候事。
第七ヶ条
一 合衆国の船、右両港に渡来の時、金銀銭並品物を以て入用の品相調候を差免し候。尤日本政府の規定に相従可申、且合衆国の船より差出候品物を日本人不好して差返候時は、受取可申候事。
第八ヶ条
一 薪水、食料、石炭、並欠乏の品を求る時には、其地の役人にて取扱、すへて私に取引すへからさる事。
第九ヶ条
一 日本政府、外国人え、当節亜墨利加人え不差免候廉相免し候節は、亜墨利加人えも同様差免し可申、右に付談判猶予不致候事。
第十ヶ条
一 合衆国の船、若し難風に逢さる時は、下田箱館両港の外、猥に渡来不致事。
第十一ヶ条
一 両国政府に於て、無拠儀有之候模様により、合衆国官吏の者下田に差置候儀も可有之、尤約定調印より十八ヶ月後に無之候而は、不及其儀候事。
第十二ヶ条
一 今般の約条相定候上は、両国の者堅く相守可申。尤合衆国主に於て長公会大臣と評議一定の後、書を日本大君に致し、此事今より後十八ヶ月を過き、君主許容の約条取替し候事。
右之条、日本亜墨利加両国の全権調印せしむる者也。
日米和親条約締結の地 | |
名称 | 日米和親条約締結の地/にちべいわしんじょうやくとうけつのち The place of Treaty of Kanagawa |
所在地 | 神奈川県横浜市中区海岸通1 |
関連HP | 横浜観光コンベンションビューロー公式ホームページ |
電車・バスで | 横浜高速鉄道みなとみらい線日本大通り駅から徒歩5分 |
ドライブで | 首都高速横羽線横浜公園ランプから約1km |
駐車場 | 市営日本大通り地下駐車場(200台/有料)など利用 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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