巨大前方後円墳・応神天皇陵の前方部に、石室(埋葬施設)発見!

5世紀前半に築かれた墳丘長425mの巨大古墳、誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん/大阪府羽曳野市)。宮内庁が応神天皇陵として管理していますが、前方部の頂上部の巨大な土盛りのなかに、石室があることが発見され、内部に埋葬施設がある可能性が高まっています。

巨大な大王墓には「大王以外」の被葬者も!?

全国第2位の規模を誇る大王墓、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)

2025年5月3日(土・祝)、宮内省の未公開報告書などから、室戸台風(1934年)の翌年、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の前方部から巨大な竪穴式石室が発見され、旧宮内省が調査していたことが判明。
見つかった『恵我藻伏岡陵前方部頂上発見石材調査報告』によると、南北7m、東西4.5mの範囲で天井石の存在を確認。
宮内庁によれば、この調査は、古墳時代の天皇陵で埋葬施設が公式に調査された唯一の事例とのこと(石室の真上の土中から、家形などの埴輪片も出土していますが、天皇陵ということで石室の内部は確認せず埋め戻されています)。

もともと2008年、考古学者らで構成する宮内庁陵墓管理委員会が初めて誉田御廟山古墳(応神天皇陵)に立ち入り、前方部の頂上に巨大な方形の土盛りを確認。
「前方部にも埋葬施設があるのでは」と推測されるようになっていました。

宮内庁が天皇陵に指定する古墳では、内部の立ち入り調査ができませんが、ほかの前方後円墳でも、航空レーザー測量などで前方部に同様の土盛りが確認されています。

これまで、ヤマト王権のシンボルとされる前方後円墳では、埋葬施設は後円部というのが通例で、前方部は祭祀の場と推測されてきましたが、埋葬施設である石室の存在は、こうしたこれまでの「常識」を大きく覆すことに。
前方部に、血縁者や政権を支えた有力者らを葬った可能性が高まっているのです。

王権のシンボルである巨大な前方後円墳が、大王ひとりの墳墓ではないことを示し、調査できないことで謎に包まれる天皇陵解明の大きな手がかりが生まれたことに。

誉田御廟山古墳(応神天皇陵)は、世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産で、大仙陵古墳(大阪府堺市)に次ぐ全国第2位の規模を誇る大王墓。
応神天皇は、『日本書紀』、『古事記』に渡来人を重用し、国家を発展させた天皇と記され、実在したとすれば、4世紀後半〜5世紀初頭頃のヤマト王権の大王ということに(律令制が始まる以前の古墳時代なので大王です)。

誉田御廟山古墳(応神天皇陵)は、5世紀初頭築造と推測され、「倭の五王」のうちの誰の墓なのかは定かでありません。
古くから応神天皇の陵墓であるとの伝承があり、応神天皇と称する大王が4世紀だと年代が不一致になります。

巨大前方後円墳・応神天皇陵の前方部に、石室(埋葬施設)発見!
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誉田御廟山古墳(応神天皇陵)

大阪府羽曳野市誉田にある古市古墳群を構成する古墳のひとつが誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)。被葬者は判明していませんが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定され、「応神天皇陵

 

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