京都・島原の町並み

島原の町並み

京都府京都市下京区西新屋敷、江戸時代、京都で唯一幕府公認の花街だった場所が、島原。幕末に再建された島原大門、島原遊廓の遺構も残され、美しい島原の町並みが現存。西郷隆盛、桂小五郎、坂本龍馬や新選組の隊士たちもここで遊んだという歴史を垣間見ることができます。

歌舞音曲を伴う遊宴の町として発展した「遊郭」

寛永18年(1641年)、官命で遊郭はそれまでの六条三筋町から西新屋敷へ強制移転させられています。
その移転があまりに急で大混乱したので、当時起こった島原の乱になぞらえて、俗称で島原と呼ばれるように。

ここには文人墨客も集まったので、和歌や俳諧などの文芸も隆盛し、江戸時代中期には島原俳壇が形成されています。
最高位の太夫は、歌舞音曲の芸はもとより、茶、花、和歌、俳諧などの教養を身に付け、芸を要求されなかった江戸・吉原の花魁(おいらん)とは大きく異なるところも、京らしさで、遊郭というよりも花街としての色彩が濃かったといわれています。

島原は、吉原と同様に囲郭的な都市構造でしたが、業務内容は歌舞音曲を伴う遊宴の町、現在の花街に近く、閉鎖的な吉原と大きく異なり、島原内に劇場が開設され一般女性も出入りできたことから、比較的に開放的な町だったのです。

そんな島原も維新後は、明治6年に歌舞練場ができ、京の六花街(上七軒、祇園甲部、先斗町、祇園東、島原、宮川町)にも数えられましたが、立地条件の悪さのため除々にさびれ、昭和52年に花街としての営業を終えています。
京都花街組合連合会を脱会したため現在の「京都の五花街」(上七軒、祇園甲部、先斗町、祇園東、宮川町)には含まれていません。

堀と塀をめぐらした郭への入口のひとつ、東の正門である現存する島原大門は、慶応3年(186年7)の再建。
寛永年間に建てられた揚屋「角屋」も、島原遊廓最古の揚屋建築の遺構として残り「角屋もてなしの文化美術館」として再生されています。

また今も茶屋を営む置屋遺構「輪違屋」(わがちがいや)も健在で、表に「観覧謝絶」の札が出ているのは、「一見さんおことわり」の意。

島原独自の「送り込み制」が文化サロンとしての機能を生んだ

置屋遺構「輪違屋」
置屋遺構「輪違屋」

島原では、宴席の「揚屋」や「茶屋」と、太夫や芸妓を抱える「置屋」とに分かれる営業形態「送り込み制」を採用し、江戸・吉原などの自ら娼妓を抱えて営業する「居稼ぎ制」の遊廓とはシステム自体が異なっています。
この「送り込み制」は、祇園や、全国の花街にも伝えられ、芸を磨く歌舞練場がつくられたのです。

置屋とは太夫(たゆう)を抱え芸事やしきたりなどを教育する場所。
揚屋は客が太夫などを呼んで遊興した店で、置屋は、揚屋からの客の求めに応じて太夫を差し向けたのです。
揚屋は、現在の料亭にあたるもので、太夫が客に呼ばれて置屋から揚屋に行くことを揚屋入りと呼んでいました。
寛永18年(1641年)の築で、その後、拡張されてきた揚屋「角屋」は、社寺の書院、客殿と同等のしつらいがなされ、国の重要文化財に指定。

揚屋は小部屋で遊女と遊ぶ遊郭とは大きく異なり、宴会場に近いスタイル。
だから歌会なども行なわれる文化サロンとしても機能したのです。
「揚屋」は、宝暦7年(1757年)以降、京の島原と大坂の新町のみとなり、島原を代表する「角屋」は法律的な揚屋としては明治5年まで営業を行ない、昭和60年まではお茶屋業として宴会を引き受けていました。

京都・島原の町並み
名称 京都・島原の町並み/きょうと・しまばらのまちなみ
所在地 京都府京都市下京区西新屋敷揚屋町
電車・バスで JR丹波口駅から徒歩5分
ドライブで 名神高速道路京都南ICから約4km
駐車場 なし/周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ