徳川家康が京都の守護と上洛時の宿泊場所として1603(慶長8)年に築造し、3代将軍・徳川家光が伏見城の遺構を移すなどして1626(寛永3)年に完成したのが二条城(元離宮二条城)。1867(慶応3)年に15代将軍・慶喜が大政奉還を行なうまで京都の政治・軍事の中心として機能しました。日本100名城、世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産。
家康が築き、そして江戸幕府終焉の舞台となった城
永禄8年(1565年)、足利義輝が斯波氏の屋敷跡に二条御所を構えたのが前身。
織田信長を後ろ盾に京に入った足利義昭も、二条御所を居城としますが、信長に対し挙兵し、ついに開城解体となり、室町幕府が滅んだ地ともなっています(破却された建物は安土城に流用されています)。
信長は一帯の眺望を気に入って、「二条御新造」を建築、朝廷に献上して「二条新御所」となりましたが本能寺の変の際に明智光秀軍に囲まれて炎上。
1601(慶長6)年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、上洛時の居所として天下普請で築城したのが、現在の二条城です。
造営総奉行は、京都所司代・板倉勝重(いたくらかつしげ)、作事(建築)の大工棟梁には中井正清(なかいまさきよ)が任じられています。
二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されています。
1602(慶長7)年に御殿が、1606(慶長11)年と天守が落成し、御殿(現在の二の丸御殿)は、1611(慶長16)年には徳川家康と豊臣秀頼との会見、さらには大坂冬の陣・夏の陣の軍議・出陣などの舞台となった場所。
大坂冬の陣の際には二条城は家康の本陣となっています。
大坂夏の陣にあたっては、二条城に火をかけようとする陰謀が発覚、古田織部が切腹するという事件が起きています。
その後も改修、拡幅も行なわれ、1750(寛延3)年には落雷により天守を焼失(天守台のみ現存)。
大政奉還の発表が行なわれた二の丸御殿大広間
国宝の二の丸御殿は、6棟からなる大書院造りで襖絵は狩野探幽(かのうたんゆう)らによる名作。
慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上する大政奉還の発表が行なわれたのは二の丸御殿大広間です。
大政奉還後、徳川慶喜は大坂城へと退いています。
二の丸御殿の黒書院は、将軍と親藩大名・譜代大名の対面所。
白書院は、将軍の居間・寝室だったところで、江戸城では大奥にあたる部分。
二の丸御殿の南西には、小堀遠州作庭の大名庭園の二の丸庭園があります(国の特別名勝)。
池の中央に蓬莱島その左右に鶴亀の島を配した池泉回遊式庭園で、小堀遠州作と伝えられます。
本丸御殿は京都御所にあった旧桂宮御殿を明治26年から1年をかけて移築したもの。
この建物は1847(弘化4)年に建てられたもので、宮御殿の遺構で唯一完全な形で残っている貴重なもの。
仁孝天皇(にんこうてんのう)の皇女和宮が14代将軍家茂に嫁がれる前、約1年8ヶ月にわたって居住した貴重な建物で、国の重要文化財に指定されています。
唐門のは天皇家の家紋(菊紋)が付いていますが、近年の調査で、その下には徳川家の葵の紋が隠されていることが判明しています(創建当初は葵の紋でした)。
二条城 3つのチェックポイント
世界遺産、「日本100名城」に選定された名城
二の丸御殿は桃山時代武家風書院造りの代表格
二の丸庭園は小堀遠州作の名園
二条城 | |
名称 | 二条城/にじょうじょう Nijo Castle(Nijo-jo) |
所在地 | 京都府京都市中京区二条通堀川西入ル二条城町541 |
関連HP | 元離宮二条城公式ホームページ |
電車・バスで | 地下鉄東西線二条城前駅下車、徒歩2分で東大手門。JR京都駅から市バスで17分、二条城前下車、徒歩1分で東大手門 |
ドライブで | 名神高速道路京都南ICから約7.7km |
駐車場 | 第1駐車場(120台/有料)、第3駐車場(20台/有料) |
問い合わせ | 二条城 TEL:075-841-0096/FAX:075-802-6181 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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