角倉了以邸跡

角倉了以邸跡

京と伏見を結ぶ舟運を目的に私財を投じて高瀬川を開削した角倉了以(すみのくらりょうい)。その角倉了以邸跡の碑は、高瀬川の起点である高瀬川一之船入(京都市中京区一之舟入町)に立っています。開削後に高瀬川の管理者となった角倉氏はここに角倉屋敷をおき、高瀬舟の運航を管理したのです。

高瀬川を開削、京に繁栄をもたらした角倉家

角倉家は、高瀬川沿いに邸宅を何軒か所有しましたが、高瀬川一之船入の角倉邸が最も大きいものでした。
高瀬川の開削に先立って角倉了以は、慶長11年(1606年)、保津川の開削を行ない保津川舟運を開始していますが、徳川幕府が暹羅(しゃむろ=タイ王国)から鉄砲と硝石の調達を始めた頃。

つまり、文禄元年(1592年)、豊臣秀吉の許可を受け、すでに安南国(ベトナム)との交易を行なっていた角倉了以は、海外貿易をも視野に入れ、保津川、続いて高瀬川を掘削し、舟運を発展させたわけなのです。
それまでは、大坂方面からの物資は淀川を舟で運び、鳥羽で陸あげされ、陸路を京市中へと運んでいたので、大坂〜伏見〜京を結ぶ高瀬川の開削は、その後の京の発展にとって欠かせない運河となりました(高瀬川の舟運は大正9年に廃止)。
角倉了以自身は、高瀬川運河の完成を見届けたかのように、竣工した年、慶長19年7月17日(1614年8月22日)に没しています。

豊臣方と徳川方の最終決戦となった大坂夏の陣は、慶長20年(1615年)。
その一方で財を蓄えた角倉了以は、徳川家康の後押しを受け、保津川・高瀬川、富士川・天竜川の開削という近世的な物流(河川舟運)方式を着実に生み出しています。
以降、最上川舟運とつなぐ西廻り航路(北前船)、阿武隈川舟運と連動する東廻り航路を河村瑞賢が完成させ、時代は、中世から近世へと大きく舵を切っていたことがわかります。

名称 角倉了以邸跡/すみのくらりょういていあと
所在地 京都府京都市中京区一之船入町
電車・バスで 地下鉄東西線京都市役所前駅から徒歩4分、京阪電鉄三条駅から徒歩7分
ドライブで 名神高速道路京都南ICから約9kmで市営御池駐車場
駐車場 市営御池地下駐車場(1000台/有料)など周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 京都総合観光案内所 TEL:075-343-0548
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
高瀬川一之船入

高瀬川一之船入

京都市街から伏見へと流れる高瀬川は慶長19年(1614年)、角倉了以(すみのくらりょうい)が開削した運河。船入は二条~四条間に9ヶ所つくられ、京へ運び入れる荷物の積み下ろしと船の方向転換が行なわれた場所です。唯一現存する高瀬川一之船入には堀

 

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