田辺城資料館

田辺城資料館

京都府舞鶴市、田辺城(舞鶴城)の平成4年に復元された城門(大手門)2階が田辺城資料館になっています。細川幽斎を中心とした京極家、牧野家の田辺藩歴代藩主や、旧城下町模型などで田辺城下町の歴史を紹介。復元された大手門は本来の位置ではなく外堀のあった場所に建てられています。

細川幽斎が築いた田辺城の歴史を学ぶ

田辺城資料館

関ヶ原合戦の直前、徳川家康の会津出兵に参戦して手薄になった田辺城に、福知山城主・小野木重勝を大将にする石田三成軍1万5000が押し寄せます。
守備する細川軍は、細川忠興の会津出陣によって、留守居役の500人しかいませんでした。
城を守備する忠興の父・細川幽斎は、宮津城、峰山城、久美浜城を捨て、田辺城の籠城を決め込みます。
城下の瑞光寺、桂林寺からも門徒が駆けつけ、城を守備します。

注目すべきは、細川幽斎が近世歌学を大成させた当代一流の文化人で、当時唯一の古今伝授の伝承者だったこと。
もし、細川幽斎が討ち死にすれば、古今伝授が途絶えてしまうのです。
そのため後陽成天皇は、西軍は囲みを解き、幽斎は開城すべしという勅命を出します。
西軍の撤収を見届けた幽斎は、城を開城しますが、籠城後、50日目のことでした。
その2日後には、関ヶ原で家康率いる東軍が勝利し、徳川幕府が開かれるのです。
細川忠興軍は石田三成の本陣笹尾山を攻めて活躍、田辺城の籠城での殊勲、関ヶ原合戦の戦功があって、細川家は豊前中津39万9000石、そして肥後熊本54万石の大大名へと出世するのです。

そんな細川家の拠点だった田辺城は、藩政時代には田辺藩の藩庁として機能し、京極家(外様大名)、そして牧野家(譜代大名)が藩主となって明治維新を迎えています。
最後の藩主・牧野弼成(まきのすけしげ)は、廃藩置県で藩知事となった際、紀伊田辺藩との混同を避けるために、田辺城が舞鶴城(ぶがくじょう)と呼ばれていたことから田辺を舞鶴(のちの舞鶴市)と改名しています。
これが舞鶴という名の始まり。

ちなみに、細川幽斎は、2020年大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀の与力としても活躍。
その子、細川忠興の正室・細川ガラシャは、明智光秀の三女(織田信長の発案で細川家に嫁ぎます)で、本能寺に変の際には「謀叛人の娘」ということで丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉されています。

田辺城資料館
名称 田辺城資料館/たなべじょうしりょうかん
所在地 京都府舞鶴市南田辺15-22
関連HP 舞鶴市公式ホームページ
電車・バスで JR舞鶴線・北近畿タンゴ鉄道宮津線西舞鶴駅から徒歩5分
ドライブで 舞鶴自動車道舞鶴西ICから約5.6kmで市営南田辺駐車場
駐車場 市営南田辺駐車場(75台/無料)
問い合わせ 田辺城資料館 TEL:0773-76-7211
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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