谷性寺

谷性寺

京都府亀岡市宮前町、明智光秀ゆかりの真言宗大覚寺派の寺が谷性寺(こくしょうじ)。「桔梗寺」、「光秀寺」とも呼ばれ、境内には明智光秀の首塚もあります。初夏(6月下旬〜7月下旬)には明智家の家紋の桔梗(ききょう)を植栽した門前のキキョウの花畑「ききょうの里」が満開に。

明智光秀が尊崇した本尊・不動明王

谷性寺
明智光秀の首塚

天正3年(1575年)、織田信長の丹波攻略を任された明智光秀は、坂本城を拠点に丹波をなんとか攻略し、亀山城(現・亀岡市)、周山城(京都市右京区京北周山町)を築城、横山城を修築して福智山城に改名し、丹波支配を完成させています。
亀山城は丹波統治の拠点として天正6年(1578年)に築城。
その時、谷性寺本尊の不動明王を尊崇し、本能寺の織田信長を攻める際にも谷性寺の不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願したと伝えられています。

天正10年6月2日(1582年6月21日)変後の山崎の戦いで敗れた明智光秀の首は、本能寺、そして京の粟田口に晒されています(本能寺の変後、明智光秀へ2回勅使となった吉田神社神職・吉田兼見の日記『兼見卿記』)。

谷性寺の寺伝では、明智光秀の命令で介錯を務めた家臣の溝尾茂朝(みぞおしげとも)が光秀の首を持ち帰って埋葬したとしています(現存する首塚は江戸時代のもの)。
ただし、溝尾茂朝は落ち武者狩りで首を竹藪に隠した後、坂本城に落ち延びて自刃ともされ、定かではありません。

明智光秀は、天正10年6月13日(1582年7月2日)没とされていますが、滋賀県大津市の西教寺、そして谷性寺では6月14日を命日とし(明智光秀の命日に関しては諸説あります)、回向が行なわれています。
また、毎年5月5日に開催される亀岡の基礎を築いた明智光秀を顕彰する市民参加型の一大イベント『亀岡光秀まつり』では、谷性寺で追善供養を実施。

谷性寺の御朱印には「桔梗」の印があるので、御朱印集めの人は、お見逃しなく。

谷性寺
名称 谷性寺/こくしょうじ
所在地 京都府亀岡市宮前町猪倉土山39
関連HP 亀岡市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR亀岡駅から京阪京都交通バスで27分、猪倉下車、徒歩5分
ドライブで 京都縦貫自動車亀岡ICから約8km
問い合わせ 谷性寺 TEL:0771-26-2054
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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