国宝を目ざす丸岡城、天守は江戸時代築だった!

丸岡城

これまで、戦国時代の天守として国宝を目指してきたのが福井県坂井市にある丸岡城。国宝指定には築城年を示す正確な史料が必要です。その史料に欠ける丸岡城では、天守の通し柱などの科学的な調査を実施しました。その結果、なんと、戦国時代末期ではなく、江戸時代築だったことが判明したのです。

「現存する最古の天守」ではなかった!?

まずは、これまで日本最古の現存天守とされていた丸岡城(福井県坂井市)の話から。
これまで坂井市は、天正4年(1576年)、一向一揆の備えとして織田信長の命により柴田勝家が甥の柴田勝豊に命じて築城としていました。
再建や改築した記録などがないため、坂井市は「現存する最古の天守」とPRしてきたのです。
国宝に指定されなかったのは天守に築城年を示す墨書など、築城年を裏付ける明確な史料がなかったため。
文化庁は「国宝となるには、新しい知見を出すこと」という姿勢で、築城年を証明する史料に欠ける丸岡城は、科学的調査で新しい発見を・・・と意気込んだのです。

そこで、坂井市教育委員会は丸岡城の国宝化を目指し、建築史学、歴史学、考古学、さらには構造力学などの専門家による「丸岡城調査研究委員会」(会長:吉田純一福井工業大学客員教授/建築史学)を発足。
平成27年度〜平成30年度にかけて丸岡城天守の総合的な調査研究を実施し、その成果を「丸岡城天守学術調査報告書」にまとめて平成31年3月に200部を販売したのです。

江戸時代初期築なのに「望楼型」!

丸岡城天守学術調査では、天守の柱や梁(はり)など主要部材について、年輪、放射性炭素年代測定、酸素同位体比の3つの年代調査を実施したのですが、その結果、主要な部材はなんと、戦国時代ではなく江戸時代の1620年代後半以降の用材だということが判明。
つまり築城は、早くても寛永年間(1624年~1644年)ということになったのです。

当時の城主は本多成重(ほんだなりしげ=日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の「お仙」は幼児だった本多成重のこと。父・本多重次が長篠の戦いの陣中から妻に宛てた手紙)。
「丸岡城調査研究委員会」は、丸岡藩が寛永元年(1624年)に立藩したことを契機として、初代藩主である本多成重の時代に整備された可能性が高いと判断したのです。
丸岡城は下層部の上に望楼部分を載せる「望楼型」。

慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)の一国一城令以降に建てられた天守は下層部と上層部を一体的に組み上げる「層塔型」が多いのですが、丸岡城は寛永年間(1624年~1644年)に望楼型で建築されたことになるという矛盾が・・・。
「望楼型が古く、層塔型が新しいという城郭史の常識に一石を投じる可能性も」(調査研究委員会)というエポックメイキングな部分も生まれました。

つまり、「国内最古」の称号は失ったものの、「国宝指定に向けたステップ」として得るものも多かったと強調しているのです。

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