宮城県多賀城市にある奈良時代に立てられた石碑が多賀城碑。多賀城跡の外郭南門から30mほど城内に入ったところに立つ古代の石碑で、那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)、多胡碑と並ぶ「日本三古碑」のひとつ。天平宝字6年(762年)、藤原朝狩(ふじわらのあさかり)が建立した多賀城の改修を記した記念碑です。
那須国造碑、多胡碑と並ぶ「日本三古碑」のひとつで国宝
高さ196cmの花崗岩質砂岩の碑で、前半5行には箇条書きで京(平城京)、蝦夷国(えみしのくに=宮城県北以北の地域)、常陸国(茨城県)、下野国(栃木県)、靺鞨国(まつかつのくに=中国東北部の渤海国か)から多賀城までの距離を記しています。
後半6行の本文には、神亀元年(724年)に大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)が多賀城を設置したこと、天平宝字6年(762年)に藤原恵美朝臣朝狩(ふじわらのえみのあそんあさかり=藤原朝狩)が多賀城を改修したことの記述(「天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守將軍藤原惠美朝臣朝獦修造」)があります。
現在、多賀城碑と呼ばれる石碑は、江戸時代初めに発見され、平安時代の終わり頃から歌に詠みこまれた歌枕の「壺碑」(つぼのいしぶみ)とみなされて、元禄2年5月8日(1689年6月24日)には『奥の細道』途中の松尾芭蕉が訪れ、わざわざ碑文を書き写しています。
また、水戸藩第2代藩主・徳川光圀(とくがわみつくに)は、『大日本史』編纂の際に派遣した家臣の報告で、多賀城碑が苔むした状態であることを知り、仙台藩主・伊達綱村(だてつなむら)に対し、碑を保護する覆屋(おおいや)の建設を勧め、その結果、仙台藩によって覆屋が建てられています。
多賀城市では、壺碑(つぼの石ぶみ)、末の松山、興井(沖の石)の3ヶ所の歌枕の地が国の名勝「おくのほそ道の風景地」に指定されています(市町村に3ヶ所あるのは平泉町と多賀城市のみ)。
令和6年8月27日に国宝(古文書)に指定。
多賀城碑 | |
名称 | 多賀城碑/たがじょうひ |
所在地 | 宮城県多賀城市市川田屋場 |
関連HP | 多賀城市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR国府多賀城駅から徒歩15分 |
ドライブで | 三陸自動車道利府塩釜ICから約3.6km。または、仙台東部道路仙台港北ICから約5km |
駐車場 | 30台/無料 |
問い合わせ | 多賀城市観光協会 TEL:022-364-5901 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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