孝順寺(斎藤邸)

孝順寺(斎藤邸)

新潟県阿賀野市保田地区にある豪農の館、斎藤家の屋敷跡が孝順寺(斎藤邸)。斎藤家は、江戸時代初期の寛永年間(1624年~1643年)以降、大庄屋を務めた家柄で、明治30年には1000町歩を所有する千町歩地主でした。戦後の農地改革で田畑と邸宅を手放し、昭和6年に建てられた豪農の家は、孝順寺の本堂となっています。

桃山様式を用いた豪農の遺構と美しい庭園

斎藤家は、寛永20年(1643年)、出羽国・米沢から移り住み、安田組大庄屋となっています。
明治6年の地租改正をきっかけに(地租改正で年貢として米を納めるのではなく、税金の納付に変更になりましたが、対応できない農民が続出)、地主の元に土地が集中したことで、明治30年に、千町歩地主となり、昭和の初めに池泉回遊式の大庭園、書院造風の本邸を建築しています。

戦後の農地改革で、邸宅と庭は物納として国庫に入った後、競売にかかり、孝順寺が落札しています。

現在、孝順寺の本堂になっている建物と、池泉回遊式の庭園はともに昭和初期のもの。
本邸(本堂)は、紫檀や黒檀を用いた桃山様式の優美な造りで、格天井(ごうてんじょう)なども配されています。
6月に咲き誇るスイレンが見事な池泉回遊式庭園に臨み、屋根の上にのっているのは、地元の安田瓦です。

五頭連峰を借景とした庭園は、北前船交易などを通じて京文化が導入されたという歴史を背景にした伝統的なもの。
庭の奥にはかつては水が流れ落ちていた涸滝があります。
10年の歳月を費やして、庭園と本邸を築いたのは、困窮した小作人や村民の失業対策として(昭和4年世界大恐慌が始まる)。
大工も職人すべて村民を使い、材料の多くは所有する山から切り出しています。

現在、庭園は「にいがた庭園街道」のひとつにもなっています(庭園の見学は事前の申し込みが必要)。

境内には1年に3度実をつけたという親鸞(しんらん)の「越後七不思議」のひとつ「保田の三度栗」(信徒の捧げた焼栗を蒔いて、仏縁を説いたところ、芽が出て、一年に三度実る栗の木が育ったという伝説の栗)もあります。

ちなみに、「にいがた庭園街道」のうち、孝順寺(斎藤邸)と、市島邸(市島家)、椿寿荘(田巻家)、北方文化博物館・新潟分館(伊藤家)は、いずれも千町歩地主の庭園です(残る白勢家と、新潟県には5家の千町歩地主がありました)。

孝順寺(斎藤邸)
名称 孝順寺(斎藤邸)/こうじゅんじ(さいとうてい)
所在地 新潟県阿賀野市保田4626-1
関連HP 阿賀野市公式ホームページ
電車・バスで JR水原駅から新潟交通バス保田行きで30分、保田横町下車、徒歩3分
ドライブで 磐越自動車道安田ICから約3km
駐車場 10台/無料
問い合わせ 孝順寺(斎藤邸)TEL:0250-68-2434
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

北方文化博物館・新潟分館

北方文化博物館・新潟分館は、新潟の旧市街にあり、建物は明治28年に建てられたもの。当初の所有者は日本海の油田掘削で富を得た長岡の清水常作(しみずつねさく)。やがて明治末期には、かつて「越後の豪農」と称された、伊藤家6代目・伊藤文吉の新潟別邸

市島邸

市島邸

新潟県新発田市天王にある、新潟屈指の豪農の家と庭園が市島邸(いちしまてい)。福島潟干拓に力を注ぎ、幕末に財を成した新発田の豪農が市島家(ルーツは丹波=兵庫県)。見事な邸宅と、それを取り囲む回遊式の庭園「静月園」が公開されています。庭園は、「

 

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