居多ヶ浜

居多ヶ浜

建永2年(1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、越後国府(現在の新潟県上越市)に配流の身となった浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が上陸した地が、上越市の居多ヶ浜(こたがはま)。建暦元年(1211年)11月17日、流罪より5年後に赦免されますが、7年間、越後国府の地に草庵を結び、恵信尼(えしんに)を妻としています。

承元の法難で親鸞が越後配流の際に上陸地となった海岸がここ

元久元年(1204年)、比叡山延暦寺(北嶺)が専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える決議(「延暦寺奏状」)を出し、元久2年(1205年)、南都(奈良)の興福寺の僧徒からも念仏停止の訴え(「興福寺奏状」)と、法然ひきいる吉水教団が既存の宗教団体からの弾圧が始まります。

さらに建永元年(1206年)12月、後鳥羽上皇の熊野御幸(熊野詣=後鳥羽上皇は、24年の在院期間のうちに28回も1ヶ月を費やして熊野に詣でています)の間に、鹿ヶ谷で開いた念仏会に院の女房らが参加し、上皇不在の時に院に招き入れて宿泊させ、さらには松虫と鈴虫が出家し尼僧となったことで後鳥羽上皇は激怒。

建永2年(1207年)2月、専修念仏の停止を決定し、院に泊まったという住蓮房、安楽房には不義密通の疑いもあって死罪に。
さらに西意善綽房、性願房が死罪となり、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子を流罪となったのです。

法然の弟子、親鸞は僧籍を剥奪され、藤井善信(ふじいよしざね)の俗名を与えられて越後国国府へ配流されたのです。

京から陸路で小野浦(現・糸魚川市木浦=山崩れで中世の湊は現存していません)へ。
木浦から船で越後国府のある居多ヶ浜へ向かったのです。

夏には海水浴で賑わう砂浜の「なおえつ海水浴場」の東端、居多ヶ浜。
背後の高台は「親鸞聖人上陸の地」として整備され、展望台や聖人の木像が安置される見真堂(見真は明治天皇が聖人に贈った謚号)、休憩ができる「居多ヶ浜記念堂」(上越市五智6-3-4)などが整備されています。

展望台の脇には「もしわれ配所におもむかずは、何によりてか辺鄙(へんぴ)の群類を化せん、これ猶師教の恩致なり」という覚如が記した『本願寺聖人伝絵』(ほんがんじしょうにんでんね=親鸞上人の遺徳を讃仰するための絵巻物と詞書)の言葉が記されています。

海岸の背後には、最初に参拝したという居多神社(こたじんじゃ)、草庵を結んだとされる五智国分寺もあり、親鸞聖人ゆかりの地となっています。

居多ヶ浜
名称 居多ヶ浜/こたがはま
所在地 新潟県上越市五智
関連HP 上越観光コンベンション協会公式ホームページ
電車・バスで JRえちごトキめき鉄道直江津駅から徒歩25分。または、頸城バス居多ヶ浜下車、徒歩1分
ドライブで 北陸自動車道上越ICから約6.7km
駐車場 あり/無料
問い合わせ 上越市観光振興課 TEL:025-526-5111/FAX:025-526-6113
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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