興井(沖の石)

興井(沖の石)

宮城県多賀城市、末の松山浄水場近くにあるのが歌枕になっている景勝地、興井(沖の石)。「おきのい」は、興井、沖の石、沖の井とも表記し、末の松山の南に位置し、住宅に取り囲まれた直径20mほどの池の中に奇岩が露出しています。芭蕉も訪れた地で、国の名勝「おくのほそ道の風景地」に指定されています。

松尾芭蕉は『奥の細道』途中で立ち寄った歌枕の地

興井(沖の石)

『千載和歌集』にある二条院讃岐(にじょういんのさぬき)の歌「わが袖は 汐干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾くまもなし」や『古今和歌集』にある小野小町の歌「おきのゐて 身をやくよりも 悲しきは 宮こしまべの わかれなりけり」などで有名。
二条院讃岐の歌は、『二条院讃岐集』に「石に寄する恋」と詞書され、この歌が有名になったことで、二条院讃岐は「沖の石の讃岐」と呼ばれるまでになったのです。
『百人一首』にも収録されています(「私の袖は、干潮の時でも見えない沖の石のように、人は知らないでしょうが、涙にぬれてかわくひまもないのです」の意)。

元禄2年5月8日(1689年6月24日)、松尾芭蕉は『奥の細道』途中で、多賀城碑などととも興井(沖の石)にも寄り道していますが、芭蕉が旅した頃には民家の裏手に池があったことを曾良が日記に記しています。

水戸藩第2代藩主・徳川光圀(とくがわみつくに)は、『大日本史』編纂の際に派遣した家臣の報告で、歌枕・「壺碑」(つぼのいしぶみ)の多賀城碑が苔に覆われていることなどを仙台藩主・伊達綱村(だてつなむら)に指摘し、伊達綱村は地元の有力者を「奥井守」に任命し、諸役を免除する代わりに興井を手厚く保護させています。

多賀城市では、壺碑(つぼの石ぶみ)、末の松山、興井(沖の石)の3ヶ所の歌枕の地が国の名勝「おくのほそ道の風景地」に指定されています(市町村に3ヶ所あるのは平泉町と多賀城市のみ)。

興井(沖の石)
名称 興井(沖の石)/おきのい
所在地 宮城県多賀城市八幡2-19
関連HP 多賀城市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR多賀城駅から徒歩8分。または、JR国府多賀城駅から徒歩35分
ドライブで 仙台東部道路仙台港北ICから約2km
駐車場 なし
問い合わせ 多賀市観光協会 TEL:022-364-5901
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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