山口県長門市、日本海長く突き出したムカツク半島(向津具半島)というヘンテコな名前の半島がありますが、その半島には、なんと! 楊貴妃(ようきひ)の墓があります。なぜ楊貴妃の墓があるのかといえば、大陸への玄関口だったという歴史があったから。早速、ムカツク半島に向かいましょう。
ムカツク半島(向津具半島)に渡り、楊貴妃の墓へ
まずは、楊貴妃について簡単におさらい。
楊貴妃は、中国古代、唐の玄宗皇帝が寵愛した皇妃(719年〜756年)。
日本でいえば奈良時代のこと。
遣唐使は平安時代の承和5年(838年)まで続いていたので、日本と中国(唐)は、交流がありました(日本の都は唐の長安がモデルで、律令制度も唐を模して導入しています)。
その楊貴妃ですが、安史の乱(あんしのらん)の責任をとって死に追いやられています。
安史の乱は、楊貴妃の又従兄である楊国忠(ようこくちゅう)と対立した安禄山が起こした反乱。
首都長安が反乱軍によって制圧され、唐はウイグルに救援を求めるという大混乱が生じたのです。
10年にもわたる戦乱で、唐王朝の国威は大きく傷き、その権威も失墜。
その過程で、楊貴妃は死に追いやられたのです。
よくクレオパトラ、小野小町と並んで「世界三大美人」に数えられる、などと紹介されていますが、実は世界三大美人なるもの日本だけの考え。
しかも小野小町は残念ながら世界的には無名の存在です。
さてさて、噂の楊貴妃の墓は、ムカツク半島(向津具半島)のなかほど、長門市油谷向津具下(むかつくしも)の二尊院境内にありました。
出迎えてくれるのは高さ3.8mという巨大な大理石製の楊貴妃像。
期待も高まります!
二尊院60代住職の田立智暁(ただてちぎょう)さんによれば、
「寺に残る古文書は、二尊院55代目の恵学和尚が宝暦6年(1756年)に村に伝わる伝承を集めたもの」とのこと。
この古文書(もんじょ)に、天平勝宝8年(756年)、半島西側の唐渡口(とうどぐち)に空艫舟(うつろぶね)が漂着。
乗船する女性のうちの一人が長安郊外の馬嵬坡(ばかいは)で命を絶ったはずの楊貴妃だったと記されていたのです。
二尊院に伝わる楊貴妃伝説の信憑性は?
さらに二尊院境内には楊貴妃の墓と伝わる「五輪塔」があり、こうした楊貴妃伝説を裏付けているようにもみえます。
地元長門市が、こんな観光資源を見逃すはずもなく、二尊院周辺を「楊貴妃の里」として、桜の広場、展望広場、散策路、イベント交流広場、中国風休憩所などを整備。
さらに中国山東省原産(山口県と山東省は友好協定を締結、山口県外で栽培しないことを条件に入手)の「肥城桃」(ひじょうもも)を30本植栽。
この肥城桃、楊貴妃が好んで食べたと伝わる桃なのです。
楊貴妃伝説で町おこしを図る長門市に対して、歴史家はクールな視線です。
まず、楊貴妃の墓といわれる五輪塔。
舎利(遺骨)を入れる容器しての五輪塔は、平安時代末期から見られる日本独自のスタイル。
しかも二尊院のものは鎌倉時代頃の五輪塔。
つまりは、「奈良時代に死んだ楊貴妃と、明らかに年代があわない。楊貴妃伝説も、後世の作」というのがいわゆる歴史学的な検証です。
検証1 ムカツク半島は、古代に中国との玄関口だった?
ムカツク半島。
漢字で書くと向津具半島。
かなりドキドキさせる名前ではありますが、向かつ国(むかつくに)、つまりは、中国を意味する地名とも、向か津=中国や朝鮮半島への玄関口となった港(津)が地名の由来ともいわれています。
いずれにしても古代には大陸との交易があった湊だということが容易に想像できる地名で、明治以前には向津具上村、向津具下村がありました。
最近の研究では、弥生人は中国南部から山口県東部の海岸(土井ヶ浜など)に上陸したことが明らかになっています。
つまりは大陸との交易を背景にした伝承とも考えられるのです。
検証2 楊貴妃の墓が五輪塔であるのはおかしい?
向津具半島の先端部にある向津具王屋敷(むかつくおうやしき)遺跡から、日本列島では4例しかないという有柄銅剣(有柄細形銅剣)が明治34年に出土しています。
弥生時代中期(紀元前2世紀~1世紀)の大陸製の銅剣で、同じものが吉野ヶ里遺跡でも発見されています。
つまり、弥生時代にはすでに大陸との交易があり、向津具半島には未知の弥生時代巨大集落(古代のクニ)があったのではと考えられているのです。
さらに、ここで重要なのは遺跡の発見の状況。
明治34年11月、暴風雨による地滑りの復旧工事の際、「石積み基壇を有する五輪塔」が崩落し、その下から有柄銅剣が出土しているのです。
ということから推測して、五輪塔であるのは後世の改変とも説明ができるので、「五輪塔だから楊貴妃の墓でない」という科学的な判断材料にならないのは明らかです。
検証3 では楊貴妃は本当に日本に来たのか?
楊貴妃氏が死んだとされる2年後の天平宝字2年(758年)、渤海から渤海大使・揚承慶らを随行して帰国した遣渤海大使・小野田守(おののたもり)が奈良の大和朝廷に対して、反乱の発生と長安の陥落、渤海が唐から援軍要請を受けた事実を報告しています。
淳仁天皇はこの報告に基づいて、北九州・太宰府(大宰大弐・吉備真備)に警戒態勢をとるように指示をするなど、朝廷も唐の内乱に対処していることがわかっています。
奈良時代、唐の政変が日本の外交にも影響を与えていたことはこの事実からも明確です。
しかしながら遣唐留学生・阿倍仲麻呂が楊貴妃を日本に連れてきたという伝承は、安禄山の乱による混乱で帰国を断念しているので、史実に反します。
結論からいえば、向津具半島は、当時、大陸との交流があった可能性が高いこと。
大きなクニがあったこと。
そして唐の混乱で脱出した人々が漂着した可能性もあることになります。
検証をすれば、義経がジンギスカンになった伝承(義経北行伝説)よりはリアリティがあることがわかります。
実際の楊貴妃の死は、皇帝である玄宗に楊貴妃の死を要求した武将・陳玄礼(ちんげんれい)らによって確認され、その後、馬嵬坡(ばかいは)の墓(現・中国陝西省興平市馬嵬鎮西)に埋葬されています。
【知られざるニッポン】vol.44 ムカツク半島に楊貴妃の墓を発見! | |
所在地 | 山口県長門市油谷向津具下3539 |
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