現存する日本最古の駅は、滋賀県長浜市にある旧長浜駅舎。「長浜鉄道スクエア」の一部として保存されていますが、敦賀線(北陸線)の起点駅として明治13年に着工、明治15年3月10日に開業した駅で、駅舎も明治15年11月に完成。敦賀港(福井県)と琵琶湖畔の近江長浜を結ぶ鉄路が、優先的に敷設された理由とは!?
東海道線の全通以前に琵琶湖と敦賀港を結ぶ敦賀線が開通!
江戸時代を通じて、太平洋側よりも日本海側のほうが物流量は多く、それを支えたのが蝦夷(北海道)と西日本を結んだ西廻り航路(北前船)でした。
当時は日本海沿岸を西に走り、下関(関門海峡)で瀬戸内に入るというコースで、途中の寄港地でも売買をしたため、1年1航海というものでした。
そうした物流に革命を起こすため、明治の新政府は東京〜神戸の幹線鉄道のほか、敦賀港と近江長浜を結ぶ鉄道を計画。
これが後に北陸線となる敦賀線で、近江長浜からは琵琶湖を鉄道連絡船で大津とを結び、再び鉄路で京都、大阪、神戸と結ぼうとしたのです。
つまり、敦賀線は明治新政府の一大プロジェクトで、「長浜鉄道スクエア」の敷地内には初代内閣総理大臣・伊藤博文、第2代内閣総理大臣・黒田清隆、鉄道院総裁の後藤新平という3人の揮毫の入った石額が置かれています。
京都と大津の間の逢坂山トンネルも明治13年に開通していたので、明治15年5月1日、太湖汽船が琵琶湖上の長浜駅〜大津駅間に鉄道連絡船「第一太湖丸」、「第二太湖丸」(いずれも鉄鋼船で汽船、大津〜長浜は所要4時間)を就航させ、敦賀線の開通を待っていました。
滋賀県と福井県の間に立ちはだかる脊梁山脈は、ループ線と連続する12のトンネルで克服。
最後の難関の柳ヶ瀬トンネルも明治17年に貫通し、金ヶ崎駅(かねがさきえき=敦賀港)と長浜駅(長浜港)は鉄道で結ばれたのです。
明治17年5月25日には、東海道本線もようやく大垣駅〜関ケ原駅間が開通、琵琶湖へと迫っていましたが、いち早く、この敦賀線が開通したことになります(新橋駅〜神戸駅間全通は明治22年、同時に琵琶湖の鉄道連絡船は終焉)。
長浜駅舎は、日本で最初に誕生した新橋駅の駅舎をモデルに建設されており、木骨構造の石灰コンクリート造り2階建て、煙突、窓枠や入口にレンガを配したお洒落な外観です。
内装は鹿鳴館調で明治初期の欧米化への意気込みを感じ取ることができます。
旧長浜駅舎の向かいにある「慶雲館」は、明治20年に明治天皇皇后の行幸啓の際に長浜駅から東京方面へ向かう休憩場所として、長浜の豪商が建てた和風の迎賓館。
京都行幸啓の帰路に大津から船を利用し、長浜に上陸するとの報が明治19年に入り、当時、鉄道連絡船を運航した太湖汽船頭取(頭取=社長)を務めていた長浜の実業家・浅見又蔵(あさみまたぞう)は私財を投じ、天皇の誕生日である11月3日に行在所建設に着工、3ヶ月余りの突貫工事で、行幸啓当日の朝に完成させています。
明治天皇と皇后は、13:00前に下船、13:45の列車で名古屋に向かうまで、この慶雲館で休息しています。
旧長浜駅舎と慶雲館は、激動する明治初期の鉄道の歴史を今に伝える貴重な文化遺産となっているのです。
現存最古の駅は琵琶湖の湖畔に! それにはちゃんと理由がある | |
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