全国に48万人近くいると推測され(0.38%)、大姓22位となるのが中島さん。あなたが中島さんで、「なかしま」と濁らずに発音するのだったら、出身地は愛知県かあるいは九州、少なくとも西日本ということに。関西出身であれば、多分、中嶋と山偏の嶋を書くのだと推測できます。
まずは中島さんの重要なルーツ、愛知県稲沢市の国府宮へ
中島さんは、「池、川などの中にある中島」を意味する地形姓。
発祥の地は大河、湖、池などの近くだと推測できます。
そんな中島さんのルーツ探しの旅は、まずは尾張国の国府があった愛知県稲沢市へ。
市域の西辺が木曽川で、天下の奇祭『国府宮(こうのみや)はだか祭り(儺追神事)』は有名です。
通称、国府宮と呼ばれる尾張国の総社「尾張大國霊神社」(おわりおおくにたまじんじゃ)から800m北、名鉄名古屋本線の線路の西近くにある式内社の久多神社(くたじんじゃ)を知る人は、愛知県民でも数少ない、知る人ぞ知る存在。
愛知県稲沢市稲島町石畑に鎮座する久多神社は、中島直(本家)、海部直(分家) を氏祖とする中島氏一族を祀っているのです。
古代の尾張国中島郡(なかしまのこおり/中嶋郡)は安土桃山時代に尾張国中島郡と美濃国中島郡に分割されているので、文字通り、尾張国と美濃国の間を流れる木曽川の中島ということに。
この分割は、天正14年(1586年)に起こった木曽川の大洪水で、美濃国との境に流れていた木曽川が中島郡内の中央を流れるようになったため、豊臣秀吉の命により天正17年(1589年)、新しい木曽川を国境にしたもの(一帯は古代から洪水との戦いでしたが、その洪水が肥沃な平野をもたらし、信長の天下布武をも実現しました)。
こうした木曽川の悠久の歴史を今に伝える尾張の中島氏は、古代日本の大部族のひとり。
実は古代の尾張国の中心が、この中島郡だあったのです。
かつて久多神社の建つ地あたりに尾張地方最古の寺院の一つ、白鳳時代創建の古代寺院・東畑寺(ひがしばたじ/史跡としては東畑廃寺、愛知県稲沢市東畑6丁目)があり、東に塔、西に金堂が並列する法起寺式の伽藍配置だったことがわかっていて、尾張国府に付属する寺院だったと推測されています。
『国府宮記』よれば尾張大國霊神社(国府宮)は、中島直、海部直の一族が創祀したもの。
地名の中島郡(なかしまのこおり)も「なかしま」と古音の清音で呼んでいる点に注目を。
大姓21位の山崎さんも西日本では「ヤマサキ」と濁らないのと同様に、古くは濁らないのが普通でした。
愛知県一宮市の中島城も中島さんの重要なルーツ
愛知県ではもう1ヶ所、同じ尾張国にも中島さんにとって重要なスポットがあります。
それが尾張国中島郡中島(愛知県一宮市萩原町中島)にあった中島城。
承久3年(1221年)に築城、鎌倉時代から戦国時代にかけて栄えた嵯峨源氏の末流中島氏の居城で、この中島氏はやがて斯波氏(しばうじ)や織田信長などに所領を奪われ、室町時代末に廃城となっています。
その後、中島氏は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣となり、中島氏種(なかしまうじたね)は大坂城(現・大阪城)に入って大坂七手組頭に任じられ、大坂夏の陣でも奮戦していますが落城を待たず自刃。
この一族は筑後国柳河藩(福岡県八女郡黒木町、八女市吉田などに子孫が)など、全国に四散して中島姓を広げたと伝えられています。
大阪・枚方(ひらかた)で江戸時代に栄えた旧家、中島九右衛門(なかしまくえもん)は、この中島氏種の子孫にあたります。
下の地図で中島小学校の南側一帯が中島城跡ですが、残念ながらとくに遺構は残されていません。
そこに立つ石碑には「尾張ノ豪族中嶋氏ノ城址ナリ 中嶋氏ハ嵯峨源氏ノ末流 平安末期コノ地ヲ領シテ勢アリ 城主ノ子滅宗 妙興寺ヲ創建スルヤ百町歩ヲ寄進ス 城ハ室町末期廃サレ 一族全国ニ散在ス 一宮市長」と刻まれ、「一族全国ニ散在ス」とここが中島さんの貴重なルーツであることを示しています。
ペリーに対面の中島三郎助も中島さんのルーツ
近世に名を馳せた中島氏としての代表として、江戸時代に、代々、相模国の浦賀奉行所で与力を勤めた中島氏がいます。
黒船が浦賀沖に来航した際に、浦賀奉行所を代表し応接掛与力として最初にペリーとの交渉を試みたのは、この与力一族の中島三郎助永胤(なかじまさぶろうすけながたね)。
中島永胤は、幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)で榎本武揚(えのもとたけあき)に従って箱館(函館)に転戦、大鳥圭介の撤退命令にも従わず、新政府軍の総攻撃を迎え撃って戦死しています。
墓は、浦賀港を見下ろす東林寺(神奈川県横須賀市東浦賀2丁目)に。
この中島三郎助永胤も先祖は豊臣秀吉に仕えた中島氏種(尾張国がルーツ)ですが、浦賀に残した足跡は大きく、毎年5月には墓前祭が執り行なわれています。
中島さんは佐賀県では大姓4位
城として現在まで名を馳せているものは、前出の愛知県一宮市の中島城のほかは、大阪市淀川区の中嶋城、因幡中島城、近江中島城、三河中島城、備前中島城など多彩。
また、美濃今尾城(岐阜県海津市平田町今尾)は、文明年間(1469年〜1487年)、斎藤氏の家臣・中島重長によって築かれ、中島氏は4代にわたって居城としましたが、織田信長に攻められ滅亡しています。
大阪市淀川区の中嶋城(堀城)は今の十三公園(じゅうそうこうえん)の東部。
北野高校前交差点一帯と推測されています。
興味深いものとして、伊万里市にある伊萬里神社の社殿の隣に、歴史は浅いのですが、お菓子の神様、田道間守(たじまもり)を祀る中嶋神社が鎮座。
垂仁天皇の命を受けた田道間守は、大陸から「非時香果」(ときじくのかぐのこのみ=柑橘類の一種。橘とも)の実を持ち帰り、伊万里に植えたと伝えられています。
兵庫県豊岡市の中嶋神社など田道間守命を祀る中嶋神社は各地に散らばっています。
中島さんの中でもっとも有名なのは中島みゆきでしょうか。
本名は中島美雪。
祖父の中島武市は、帯広では著名で帯広商工会議所会頭、帯広市議会議長などを歴任しています。
その中島家ですが出身はやはり、美濃で、岐阜県本巣郡土貴野村(現在の岐阜県本巣市)。
先祖は大垣の藩士だったようなので、尾張や美濃、戦国時代には織田信長に翻弄されただろう中島さんがルーツということに。
「全国まずいもの連盟」会長で小説家、戯曲家、随筆家、俳優、コピーライター、広告プランナー、ミュージシャンと幅広く活躍した中島らもは、本名・中島裕之で兵庫県尼崎市出身。
年配の人なら中島知久平(なかじまちくへい)をご存じかもしれません。
中島飛行機(のちの富士重工業)の創始者で、群馬県新田郡尾島村押切(現在の群馬県太田市押切町)の生まれです。
中島さんは佐賀県で大姓4位(1.39%)、群馬県で9位、全国的には関東、東海、九州に多く分布しています。
ルーツの尾張国を含める愛知県では、意外にも30位以下で、さほど多いとはいえません。
美濃国を含める岐阜県も15位程度で、尾張、美濃から全国に散らばったのだと推測できます。
家紋は、筌(うけ)、九曜巴などという珍しいものや、亀甲に剣花菱、亀甲に二つ引両、団扇、三つ左巴、花沢瀉(おもだか)、六連銭、丸に桔梗など。
小笠原氏系は九曜巴、羽団扇、三つ左巴、滋野系は花沢潟が多いのが特徴です。
取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です
中島さんのルーツを探せ! | |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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