蒼柴神社

蒼紫神社

新潟県長岡市街の東、悠久山公園内に鎮座するのが蒼柴神社(あおしじんじゃ)。もとは長岡城内に、「長岡藩中興の英主」とも称された、長岡藩3代藩主・牧野忠辰(まきのただとき)を祀ったのが始まり。蒼柴神社の名は忠辰の尊号、蒼柴大明神からとったもの。明治の神仏分離令以前は蒼柴大明神(明神=仏教的な神の称号)と呼ばれていました。

3代藩主・牧野忠辰を祀った権現造りの社

悠久山に遷座したのは、元明元年(1781年)のことで、牧野忠辰の50回忌にあたり、12年のもの歳月を費やして、日光東照宮を模した権現造りの社殿が造営されました。

祭神は牧野忠辰と忠辰が崇拝した事代主命(ことしろのぬしのみこと)。
北越戊辰戦争や第二次世界大戦の戦火を免れた本殿は往時の姿を今に伝えています。

蒼柴神社脇には、2代藩主・牧野忠成から11代藩主・牧野忠恭までの17基の墓碑が立っています。
この墓碑群は、昭和58年、東京都港区三田4丁目の旧長岡藩菩提寺・済海寺(さいかいじ=牧野忠成創建)から悠久史蹟保存会によって移されたもの。

また境内には北越戊辰戦争で戦死した藩士らが眠る悠久山招魂社があります。

寛政12年(1800年)建立の一の鳥居は、当地に社殿を建立した8代藩主・牧野忠精(まきのただきよ)の寄進によるもので、悠久山という名も実は牧野忠精による命名。
一の鳥居から二の鳥居へと続く神社参道の桜並木は、牧野忠辰が好んだ山桜(ソメイヨシノの植栽は近現代)を忠精が植えたとものがルーツ。
古くから、「お山の千本桜」と称され、桜並木は「桜第門」とも「桜雲路」とも呼ばれています。

悠久山公園全体には2500本の桜が植栽され、毎年桜の開花期(4月上旬〜5月上旬)には『悠久山桜まつり』も開催されています。

長岡藩中興の名君、牧野忠辰

寛文5年(1665年)1月4日、第2代藩主・牧野忠成(牧野氏宗家3代/初代藩主の祖父と同名)の長男として江戸に生誕。
延宝2年(1674年)、父が死去したため10歳で家督を継ぎますが、若年のため大叔父・牧野忠清の補佐を受けています。
幕府では正徳元年(1711年)、享保4年(1719年)には朝鮮通信使の接待役を務め、将軍・徳川綱吉の前で講義を行なうなどその才能を発揮しています。
藩政では文治政治を推進し、殖産興業政策、消防制度の充実などに尽力。
「中興の名君」といわれ、「文化大名」と称された9代・牧野忠精(まきのただきよ)とともに名君として有名です。

蒼柴神社
名称蒼柴神社/あおしじんじゃ
所在地新潟県長岡市悠久町707(悠久山公園内)
関連HP長岡市公式ホームページ
電車・バスでJR長岡駅東口から越後交通バスで12分、悠久山下車
ドライブで関越自動車道長岡ICから約12.2km。または、長岡南越路スマートICから約12.1km。北陸自動車道中之島見附ICから約11.9km
駐車場悠久山公園駐車場・蒼柴神社駐車場を利用
問い合わせ蒼柴神社 TEL:0258-33-1769
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
河井継之助の碑

河井継之助の碑

新潟県長岡市街東に位置する悠久山公園のほぼ中央に、8000平方メートルの敷地を誇る自由広場がありますが、そこから小高い丘に建つ長岡市郷土資料館へと向かう坂道の途中にあるのが、河井継之助の碑。河井継之助(かわいつぎのすけ)は、司馬遼太郎の歴史

小林虎三郎の碑

小林虎三郎の碑

新潟県長岡市の郊外、悠久山公園にある蒼柴神社(あおしじんじゃ)に向かう参道の脇に、ひっそりとたたずむ小林虎三郎の碑(小林病翁の碑)。病翁(へいおう)とは、幼い頃から終始病気にさいなまれた自身を表して、後年虎三郎から改名した名前。碑は没後50

悠久山招魂社

悠久山招魂社

新潟県長岡市郊外、悠久山公園内・蒼柴神社(あおしじんじゃ)拝殿の裏手にあるのが、悠久山招魂社(ゆうきゅうざんしょうこんしゃ)。明治7年に造営され、幕末の北越戊辰戦争で戦死した藩士309名、後の西南戦争で戦死した旧長岡藩士18名も合わせて祀ら

八丁沖古戦場パーク

八丁沖古戦場パーク

かつての長岡城(現在のJR長岡駅周辺)の北東には、東西3km、南北5kmにもおよぶ広大な沼地が広がっていました。それが八丁沖(別名「八町沖」)。現在の地名でいえば大黒、百束、四ッ屋、富島、亀貝一帯。幕末の北越戊辰戦争の激戦地で、激戦跡(現・

長岡城本丸跡

長岡城本丸跡

JR長岡駅・大手口の駅前広場に立つ「長岡城本丸跡の碑」。もともと本丸は現在の長岡駅が建つ場所にありましたが、明治元年・慶応4年(1868年)、北越戊辰戦争のため焼失し、廃城に。その後、公園にもなりましたが明治31年6月16日、北越鉄道線長岡

長岡城二の丸跡(長岡城祉の碑)

JR長岡駅・大手口からのびる大手通り(国道351号)沿いの現「アオーレ長岡」の西側が、長岡城二の丸跡。この長岡城、もとは堀直竒(ほりなおより)が建設に着手。堀氏はその後、城の完成を見ずに村上藩へ移封され、代わって元和4年(1618年)、譜代

栄涼寺

栄涼寺

新潟県長岡市東神田にある浄土宗の寺が光輝山月照院栄涼寺。元和5年(1619年)、長岡藩に移封された牧野忠成により開かれたと伝えられますが、もとは牧野氏が三河国牛久保城主時代(牛久保城=現・愛知県豊川市牛久保)に創建されたもの。境内には司馬遼

北越戊辰戦争・西軍上陸の地

北越戊辰戦争・西軍上陸の地

明治元年・慶応4年(1868年)、現在の新潟県長岡市を主戦場にした北越戊辰戦争の際、5月19日の早朝に西軍(新政府軍=薩長連合軍)が奇襲攻撃で上陸したのが、長岡城の西、信濃川右岸の中島村(現・長岡市中島1丁目)。これが西軍上陸の地で、中島村

西福寺・維新の暁鐘

西福寺・維新の暁鐘

信濃川右岸、新潟県長岡市渡里町にある浄土真宗本願寺派の寺が西福寺。明治元年・慶応4年(1868年)に起こった北越戊辰戦争時、5月19日の早朝に西軍(新政府軍=薩長連合軍)が信濃川を強行渡河しましたが、その際、一藩士によって打ち鳴らされ、敵の

よく読まれている記事

こちらもどうぞ