新潟県新潟市中央区西堀通、明治7年創業の老舗ホテル「イタリア軒」横、別館の「割烹螢」前に建つのが、『花嫁人形』歌碑。蕗谷虹児(ふきやこうじ)作詞、杉山長谷夫作曲による童謡『花嫁人形』。「金襴緞子の帯しめながら」の詩は、雑誌『令女界』大正13年2月号に掲載されたもので、後に杉山長谷夫が曲をつけて有名に。
ホテル「イタリア軒」横に立つ蕗谷虹児の詩碑
大正13年1月に発売予定の『令女界』2月号に、掲載予定の与謝野晶子の短歌10首が間に合わなかったため、急遽、穴埋め原稿を蕗谷虹児に依頼。
ひと晩で仕上がったのが、詩画『花嫁人形』の詩だったのです。
もともと蕗谷家は新潟島の信濃川河口で廻船問屋「三傳」(さんでん)を営んでいましたが、没落し、新発田に移って印刷業に転身。
蕗谷虹児は母親の死後(12歳のときに母が没)、新潟市で丁稚奉公をしながら絵画を学び、白山浦で暮らしていました。
その後、14歳で上京して挿絵画家に。
さらにそれだけでは飽き足らず、大正14年、妻とともにパリに5年間ほど留学しています(帰国後、パリ風のモダンな画風は一世を風靡)。
母は、15歳の若さで虹児を生み、満28歳(数えで29歳)で没しており、「28歳という若さで死んだ母と、貧しさのため芸者屋に売られた幼馴染みの女の子が二重写しとなって歌ったもの」(蕗谷虹児)で、イタリア小路を行き交う新潟芸妓(古町芸妓)の姿を見て、『花嫁人形』が生まれたのです。
不遇な蕗谷虹児の生い立ちが、昭和39年、『新潟日報』で紹介されたことをきっかけに、新潟市長らが発起人となり、昭和41年、画業50年記念で建立されたのが『花嫁人形』歌碑です。
イタリア小路に建立されたもの、蕗谷虹児の希望で。
詩碑には、「少年期このイタリア小路近くに赤貧の中ですごしました。15歳で虹児を生み、29歳の若さで逝った薄幸の母の面影を、西堀を行き交う舞妓(注/古町芸妓のこと)の姿に求めて、しばしばイタリア軒前にたたずんでいた虹児の想いがこの詩を生み、杉山長谷夫の旋律にともなわれて、哀愁に満ちた不朽の名曲として今に歌われています」と記されています。
昭和62年には、新発田市役所隣に「蕗谷虹児記念館」が建設され、新発田市では、全国『花嫁人形』合唱コンクールを毎年10月に開催。
『花嫁人形』歌碑 | |
名称 | 『花嫁人形』歌碑/『はなよめにんぎょう』かひ |
所在地 | 新潟県新潟市中央区西堀通8番町1575-1 |
電車・バスで | JR新潟駅から新潟交通バス青山行きで9分、古町下車、徒歩5分 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag