島原城

島原城

島原の乱で知られる長崎県島原市の島原城。元和4年(1618年)から7年余りを費やし、肥前日野江藩の藩主となった松倉重政が築城。森岳と呼ばれた小高い丘の上に築かれ、別名を「森岳城」といわれていました。松倉氏・高力氏など4氏19代で253年間の居城でしたが、明治7年に廃城となっています。

築城に伴う圧政が島原の乱の誘因に

元和4年(1618年)、一国一城令に従い、原城と日野江城を廃して島原城の築城を開始。
松倉重政とその子・松倉勝家は、禄高4万3千石でありながら10万石の大名の城に匹敵する城を新築したため、過重な年貢の取立てに加えて、厳しいキリシタン弾圧を実施。
その後も圧政が続き、島原の乱の原因となっています。

寛永14年10月25日(1637年12月11日)、島原の乱は有馬村で始まり、翌26日には各村の人が島原城を襲撃しますが失敗に終わります。

こうして始まり、寛永15年2月28日(1638年4月12日)、3ヶ月に渡って続いた島原の乱ですが、キリスト教弾圧は誘因であって、島原半島の南側に住む農民はの大半が乱に参戦していることから考えても農民の一斉蜂起と考えるのが一般的。

ただし島原では領民の大半がキリスト教徒だったのも事実で、農民一揆とキリシタンの反乱という両側面があったのです。

松倉氏が島原城を新たに築いたのもキリシタンの拠点から城(藩庁)を離す必要があったため。
当然、キリシタンとの合戦をも想定し、防衛上の拠点にするため強固で大きな城を築く必要があり、そのために税を重くし、結果として合戦を生み出してしまうという悪循環に。

島原の乱の結果、松倉勝家は斬首。
松倉家は改易になっています。

白亜5階建ての天守は戦後の再建

雲仙岳の麓、有明海に臨む島原城の城域は東西363m、南北1250mで、大手虎口(玄関)に設けられた桝形(ますがた)は一辺が54mという巨大さです。
そして外敵を寄せ付けない高い石垣に特長があります。

往時には白亜4重5階(5重5階とも)の天守を中核として大小49の櫓を要所に配した壮麗な城でした。
明治維新で天守以下、建築物はすべて破却されています。

現在の天守と西の櫓、巽の櫓、丑寅の櫓、長塀は、戦後に復元されたもので、天守最高階の展望所からは、眉山、島原市街、島原湾を一望に。
昭和39年に再建された天守内部は1階にキリシタン史料、2階に郷土資料、3階に民俗資料を展示しています。
外観は往時の絵図とも異なるので、復興天守(観光天守)の扱いになります。

敷地内に雲仙普賢岳に関する資料館である観光復興記念館を併設。
天守のほかにも、巽の櫓は平和祈念像作者の北村西望記念館、丑寅の櫓は民具資料館、西の櫓は全国の名城画を展示する施設として公開されています。

島原城
名称島原城/しまばらじょう
所在地長崎県島原市城内
関連HP島原城公式ホームページ
電車・バスで島原鉄道島原駅から徒歩5分
ドライブで長崎自動車道諫早ICから約42km
駐車場120台/有料
問い合わせ島原観光ビューロー(島原城) TEL:0957-62-4766
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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