南島原市の口之津港近くに立つ「南蛮船来航の地」碑(長崎県の史跡)。永禄10年(1567年)、ポルトガル船3隻が、さらに天正4年(1576年)、天正7年(1579年)、天正8年(1580年)、天正10年(1582年)にもポルトガル船2隻が入港し、戦国時代、南蛮貿易の基地となり、天正7年にはキリシタン布教の根拠地ともなっています。
トリスタン・バス・デ・ベイガ船長が入港
戦国時代、南蛮貿易の相手国であるポルトガルは、九州を日本の玄関口にしていましたが、群雄割拠の時代のため、入港地の選定には戸惑いもありました(室町幕府にも一貫した外交政策がありませんでした)。
長崎が永禄11年(1568年)に開港し、対マカオ貿易の公式の交易地となり、元亀2年(1571年)にポルトガル船が入港していますが、それ以前の永禄5年(1562年)、日野江城主・有馬義貞(ありまよしさだ)が口之津を開港しているのです。
息子の有馬晴信は、南蛮貿易を推進するため天正8年(1580年)に洗礼を受けてキリシタン大名となり、ローマへ天正遣欧少年使節を派遣しています。
ポルトガルにとっても日本との交易は「インディアス全域で行われる航海のなかで最も利益の上がる航海」(ディオゴ·ド·コウト『インディアの夢と現実についての実践的兵士の対話』)という側面があり、ポルトガル王室に莫大な利益をもたらしたのです。
永禄6年(1563年)、有馬義貞の招きにより、イルマン・ルイス・デ・アルメイダが口之津に教会を開き、永禄10年(1567年)、トリスタン・バス・デ・ベイガ船長率いるポルトガル船3隻が口之津に入港したのです。
ちなみに、トリスタン・バス・デ・ベイガ船長がマカオから長崎に定期船として入港するのは元亀2年(1571年)のことで、4年早く口之津に入港しています。
天文19年(1550年)、九州ではポルトガル船が平戸(平戸市)に初来航し、その後、永禄5年(1562年)開港の口之津(南島原市)と横瀬浦(西海市)、さらに長崎(長崎市)や府内(大分市)が南蛮貿易の寄港地として繁栄するのです。
南蛮船来航の地に隣接して中世のヨーロッパをイメージして整備した開田公園(ひらきだこうえん)がありますが、一帯の字名(あざめい)は唐人町。
南蛮貿易で栄えた時代、このあたりが海岸近くだったことを表しています。
名称 | 南蛮船来航の地/なんばんせんらいこうのち |
所在地 | 長崎県南島原市口之津町丙(開田公園内) |
関連HP | 南島原ひまわり観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | 口之津港から徒歩5分 |
ドライブで | 長崎自動車道諫早ICから約53km |
駐車場 | 30台/無料 |
問い合わせ | 南島原ひまわり観光協会 TEL:0957-65-6333 |
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