長崎県長崎市鳴滝にあるシーボルトが出島から出た後、日本人に西洋医学(蘭学)教育を実施した場所がシーボルト宅跡(鳴滝塾跡)で国の史跡になっています。30歳のときにオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行していますが、長崎での活躍の拠点が鳴滝塾です。
幕末に多くの蘭医を輩出した鳴滝塾の跡
文政6年7月6日(1823年8月11日)、27歳の時、長崎に来航したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)は、文政7年(1824年)、出島外に鳴滝塾を開設し、日本人に西洋医学(蘭学)教育を実施しています。
当初、シーボルトは当初出島を出ることは許されませんでしたが、出島に医官として来航したシーボルトの名声を慕って集まる人や診療希望者が多かったので、長崎奉行・土方勝政(旗本、墓所は東京都杉並区和泉の大円寺)は鳴滝に塾舎を構え、出張教授することを許可したのです。
土方勝政が長崎奉行に就任して、1ヶ月ほどすると新任奉行の処置に不満の長崎唐人屋敷の中国人たちが大挙して奉行所に乱入する事件が起こっていますが、前任の筒井政憲に比べて強硬な姿勢で臨んでいたことがわかります。
この鳴滝塾では、蘭医として吉雄幸戴(よしおこうさい)、楢林栄建(ならばやしえいけん)、楢林宗建(ならばやしそうけん)、戸塚静海(とつかせいかい)、伊東玄朴(いとうげんぼく)、高良斎(こうのりょうさい)、高野長英(たかのちょうえい)、石井宗謙(いしいそうけん)、伊藤圭介(いとうけいすけ)、二宮敬作(にのみやけいさく)、美馬順三(みまじゅんぞう)、岡研介(おかけんかい)、伊東昇廸(いとうしょうてき)らを輩出し、日本の近代化、西洋医学の普及に貢献しています。
鳴滝塾の建物は、当時の建物は、明治7年の大風で大破し、明治27年に解体されています。
隣接してシーボルト記念館が建ち、シーボルトの業績を紹介。
シーボルト宅跡(鳴滝塾跡) | |
名称 | シーボルト宅跡(鳴滝塾跡)/しーぼるとたくあと(なるたきじゅくあと) |
所在地 | 長崎県長崎市鳴滝2-7-40 |
関連HP | 長崎市公式ホームページ |
電車・バスで | JR長崎駅前から路面電車で新中川町電停下車、徒歩7分 |
ドライブで | 長崎自動車道長崎芒塚ICから約4km |
駐車場 | 13台/無料 |
問い合わせ | シーボルト記念館 TEL:095-823-0707/FAX:095-823-0170 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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