長崎県長崎市玉園町にある黄檗宗(おうばくしゅう)の寺、聖福寺。日本に黄檗宗を伝えた隠元の孫弟子・鉄心道胖(てつしんどうはん)が、長崎奉行、長崎の華僑たちの支援を受け、延宝5年(1677年)に開山しています。江戸時代中期築の大雄宝殿(本堂)、天王殿、鐘楼、三門は国の重要文化財に指定。
長崎四福寺にも数えられる唐寺
長崎三福寺(興福寺、福済寺、崇福寺)と呼ばれる唐寺3ヶ寺の目付寺で、聖福寺を加えて、長崎四福寺とも呼ばれています。
鐘楼に吊り下げられた梵鐘は、長崎最大のもので、除夜の鐘でその音を聴くことが可能。
平成16年公開の映画『解夏』(原作:さだまさし、監督:磯村一路、主演:大沢たかお・石田ゆり子)のロケ地にもなっています。
じゃがたらお春
境内に吉井勇の短歌が刻まれた「じゃがたらお春の碑」が立っていますが、「じゃがたらお春」は、イタリア人のニコラス・マリン(ポルトガル商船の航海士)と日本人貿易商の子女・マリア(洗礼名、日本名不明)の混血の子で、寛永16年(1639年)の第五次鎖国令により、母・マリア、姉・お万とともにバタヴィア(ジャカルタ)に追放された少女(追放時に14歳)。
追放後に日本に送ったという「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」という手紙で有名になっています。
お春は、正保3年(1646年)、バタビア(ジャガタラ)の教会で平戸生まれで、平戸を追放された青年、シモン・シモンセンと結婚し、三男四女をもうけています。
「あら日本恋しや」の手紙は、正徳4年(1714年)に西川如見(にしかわじょけん)が記した『長崎夜話草』第一巻に紹介されているのですが、蘭学者・大槻玄沢(おおつきげんたく)は「疑うべきもなき西川の偽文」と断じています。
後年お春によって書かれたとされる手紙(遺書2通)との差が大きすぎるからで、どうやら、この「日本恋しや」の手紙は創作の可能性が大なのです(平戸には、「こしょろのジャガタラ文」が伝わりますがこちらは本物)。
シモン・シモンセンは、バタビア市税関長、カンボジア使節団接待役、シナ人遺産管理委員、孤児財産管理委員を歴任した名士。
ジャカルタ古文書館には保存されているお春の遺言書には遺産の分配法などが示されており、どうやら幸せな生活を送っていたようなのです。
聖福寺はお春の追放後に建立された唐寺ですが、「長崎の鶯(うぐいす)は鳴くいまもなおじゃがたら文のお春あわれと」と刻まれた吉井勇の歌碑があり、鎖国時代の悲劇を今に伝えています。
聖福寺 | |
名称 | 聖福寺/しょうふくじ |
所在地 | 長崎県長崎市玉園町3−77 |
関連HP | 長崎市公式ホームページ |
電車・バスで | JR長崎駅から徒歩10分 |
問い合わせ | 聖福寺 TEL:095-823-0282 |
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