長崎県壱岐市勝本町にある中世の山城(国の史跡)が勝本城。天正19年(1591年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際し、兵站基地として松浦鎮信(まつらしげのぶ)に命じて築いた城で、豊臣秀吉の死後、破却され、現在は城山公園として整備され、石垣のみが残されています。
大手門枡形には見事な石垣が現存
文禄・慶長の役に際し、豊臣秀吉は朝鮮出兵のための本陣として、肥前国・松浦に名護屋城(現・佐賀県唐津市)を築いていますが、同時に玄海灘を隔てた壱岐に兵站基地(へいたんきち=部隊の移動と物資の補給を支援する基地)として勝本城を築城。
壱岐を領有する松浦鎮信を中心に、島原の有馬晴信(ありまはるのぶ)、大村の大村喜前(おおむらよしあき)、五島列島の五島純玄(ごとうすみはる)の支援で、わずか4ヶ月の突貫工事で完成しています。
完成後は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長の家臣・本多正武(ほんだまさたけ)が500人の手勢とともに慶長3年(1598年)までの7年間常駐。
文禄元年(1592年)、15万人余の大軍を朝鮮に派兵した文禄の役、慶長2年(1597年)、14万の軍勢を派兵していますが、その際に、壱岐島の中継基地となったのが勝本城と勝本浦です。
城山公園には、石垣の上に城山稲荷神社鎮座し、本丸跡からは勝本港を眼下にします。
この稲荷社も、城の鎮守、そして戦勝の祈願所として天正20年(1592年)の創建。
本丸跡の北に開口する虎口の枡形が現存し、山麓には旗揃舎(はたぞろいしゃ)と呼ばれた諸将の宿舎の石垣、物見台の石垣などが残されています。
輸送基地となった勝本浦は、ヤマト王権時代から朝鮮半島との交易の拠点で、天智2年(663年)の白村江の戦い(はくそんこうのたたかい・はくすきのえのたたかい=倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争)での敗戦後には、防人(さきもり)が配備されと烽(のろし)が配置されています。
また、江戸時代には朝鮮通信使が19回にわたり寄泊、鯨漁の基地としても栄えました。
なお、対馬にも兵站基地として最前線となる清水山城が築かれています。
勝本城 | |
名称 | 勝本城/かつもとじょう |
所在地 | 長崎県壱岐市勝本町坂本触757 |
関連HP | 壱岐市観光連盟公式ホームページ |
電車・バスで | 郷ノ浦港からタクシーで22分 |
ドライブで | 郷ノ浦港から約14km |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag