正八角形の大王墓「八角墳」、築かれた理由は謎に包まれる!?

八角墳

古墳時代の終末期(7世紀半ば)に飛鳥地方で築かれたのが正八角形の八角墳(はっかくふん)。ヤマト王権の大王墓は前方後円墳に始まり、方墳を経て、八角墳が最終形態となっていることから、大王墓の最終形態ともいえますが、実は東日本の首長墓にも築かれてるので、謎を生んでいます。

八角墳が築かれた理由は、今も謎に包まれている

八角墳
奈良県明日香村の野口王墓古墳

ヤマト王権が諸国の首長と連合し、徐々にその権力を強め、中国(隋)に学んで中央集権国家を目指すなかで、築かれた大王墓が、八角墳です。
大王墓としての八角墳は、段ノ塚古墳(現・舒明天皇陵/奈良県桜井市)、御廟野古墳(現・天智天皇陵/)、野口王墓古墳(天武・持統合葬陵)などが知られていますが、7世紀の中頃以降の築造。

かつて八角墳は大王墓の象徴で飛鳥にしかないといわれていましたが、東京都多摩市の稲荷塚古墳を明日香村教育委員会による学術目的の発掘調査が行なわれた結果、2010年に八角墳であることが判明。
東国の首長墓(被葬者は不明)にも八角墳が築かれていたことが判明。
その後、八角墳であることが判明する古墳が現れ、現在わかっている中では群馬県藤岡市の伊勢塚古墳が最古の八角墳だとされています(ただし円墳の可能性も)。
稲荷塚古墳も7世紀前半なので、大王墓に八角墳が採用される以前に東国では、八角墳が築かれていたことがわかります。

なぜ八角形の墳丘が築かれたのかは、八角形の法隆寺夢殿のように、飛鳥時代に仏教の影響を受けてという説がポピュラーですが、中央集権体制の具象化、あるいは死者の霊を最良の八卦に導くため、八方位を示す古墳が築かれたという陰陽五行説との関係性を考える研究者もいて定かでありません。

大王墓として築かれた八角墳と、東国など地方の八角墳は、そもそも意味合いが異なるのかも含め、今後の解明が待たれるところ。
まだまだ謎多き八角墳なのです。

八角墳
斉明天皇陵と推測される牽牛子塚古墳

全国に確認される八角墳 11基

区分古墳名所在地辺長築造年代
大王墓段ノ塚古墳
(舒明天皇陵)
奈良県桜井市42m7世紀中頃
御廟野古墳
(天智天皇陵)
京都府京都市山科区70m7世紀末
〜8世紀
野口王墓古墳
(天武・持統合葬陵)
奈良県高市郡明日香村58m7世紀後半
中尾山古墳
(文武天皇の真陵?)
奈良県高市郡明日香村19.5m8世紀初頭
束明神古墳
(草壁皇子の真弓山稜?)
奈良県高市郡高取町対角長
30m
7世紀末
牽牛子塚古墳
(斉明天皇陵?)
奈良県高市郡明日香村22m7世紀中頃
〜8世紀初頭
首長墓稲荷塚古墳東京都多摩市全長
38m
7世紀前半
三津屋古墳群馬県北群馬郡吉岡町対角長
23.8m
7世紀後半
経塚古墳山梨県笛吹市12.5m7世紀前半
伊勢塚古墳群馬県藤岡市直径
27.2m
6世紀末
中山荘園古兵庫県宝塚市対角長
13m
7世紀中頃
正八角形の大王墓「八角墳」、築かれた理由は謎に包まれる!?
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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