沖縄戦の戦禍を免れ沖縄県内でもっとも原形をとどめたグスクが縄県中頭郡北中城村(きたなかぐすくそん)・中城村(なかぐすくそん)にある中城城(なかぐすくぐすく・なかぐすくじょう)。中城湾(なかぐすくわん)を見下ろす標高150mの琉球石灰岩の台地上に尚泰久王(しょうたいきゅうおう)時代(1454年〜1460年)、護佐丸(ごさまる)が拡充した城と推定されています。
15世紀に護佐丸が拡充した城は、もっとも原型を留める名城
中城城は多郭式で6つの城郭からなり高台に建つので眺望もバツグン。
石垣の上に立つと西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)を眺望。
屋宜港が沖縄有数の貿易港だったことを考えても立地の良さは際立っています。
中城城は、国指定の史跡であることはもちろんですが、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界文化遺産にも登録(登録名称は中城城跡)、日本100名城にも選定されています。
創建年代は明らかではありませんが、14世紀後半までに先中城按司(さちなかぐずくあじ)が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築き上げ、その後、座喜味城から移ってきた護佐丸盛春が拡充したと推測できます。
1458年、護佐丸は王府軍としてやって来た阿麻和利(あまわり)の策略で自刃しています(正史では護佐丸が忠臣、阿麻和利が悪人とされていますが、事実は定かでありません)。
ペリー提督一行がエジプト式と評したアーチ門も現存
正門は土台だけが残り、残念ながら往時の面影はありません。
実際には再建された首里城の瑞泉門のような櫓門があったと想像されています。
正門は西側に向かって位置し、門に向かって両側の石垣がせり出し、石垣にはヒヤー(手砲)という銃を放つ狭間が設けられるという実戦的な設計になっています。
中央部の最高所に位置するのが一の郭。
中城城で最も広く、正殿(せいでん)があった場所です。
護佐丸が宴を催したと伝わる観月台もこの一の郭にあります。
廃城後には間切番所が建てられ、廃藩置県後に中城村役場がありましたが、沖縄戦で焼失。
二の郭はウナジャラグスクと呼ばれ、女性専用の郭だったと想像されています。
一の郭同様に石積み技法は、布積み(石切積み)。
二の郭にも一の郭同様に美しいアーチ型の石造の門が残されています。
三の郭は新城(みいぐすく)とも呼ばれる郭で、石積み技法の最も進んだ亀甲乱れ積みによって築かれています。
15世紀中期に護佐丸によって当時の最高の築城技術のもとに拡張されたものと考えられている郭です。
一の郭と、二の郭(以上は「石切積み」)と石積みの技法が異なることに注目を。
護佐丸が大井戸(ウフガー)を取り込み増築したというのが北の郭。
その裏門は、1853年、沖縄に上陸したペリー提督一行がエジプト式と評した精巧なアーチ門です(「要塞の資材は石灰岩であり、その石造建築は賞賛すべき構造のものであった」/『ペルリ提督日本遠征記』)。
長さ120mという西の郭は、兵馬の訓練をした場所で、首里の王を拝む首里遙拝所があるのが南の郭です。
また、城郭の東側には護佐丸の墓も築かれています。
中城城 | |
名称 | 中城城/なかぐすくぐすく・なかぐすくじょう |
所在地 | 沖縄県中頭郡北中城村大城512 |
関連HP | 中城城跡公式ホームページ |
電車・バスで | 那覇バスターミナルから琉球バス23番具志川線具志川バスターミナル行きで34分、普天間乗り換え、東陽バス58番県総合運動公園線泡瀬二区行きで15分、中城公園下車すぐ |
ドライブで | 沖縄自動車道北中城ICから約3.2km |
駐車場 | 中城城跡公園駐車場(80台/無料) |
問い合わせ | 中城城跡共同管理協議会 TEL:098-935-5719/FAX:098-935-1146 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
取材・画像協力/沖縄観光コンベンションビューロー
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