叡福寺北古墳

叡福寺北古墳

大阪府南河内郡太子町にある円墳で、宮内庁により「磯長墓」(しながのはか)、つまりは厩戸皇子(聖徳太子)の墓に治定。周辺には天皇陵4基(敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵)があり、磯長谷古墳群(しながだにこふんぐん)と呼ばれています。考古学的にも叡福寺北古墳は、厩戸皇子の墓とする考えが支配的です。

厩戸皇子(聖徳太子)と母、后の合葬墓と推測されています

叡福寺北古墳

磯長墓(叡福寺北古墳)の拝所

叡福寺北古墳の直径は南北43m・東西53mで、3段になった円墳で、古墳時代終末期かた飛鳥時代の築造と推測されています。
横穴式石室が埋葬施設で、棺台3基が現存。
円墳の周囲には聖地と俗界を隔てるため、結界石が二重に配されています。

厩戸皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)は推古天皇30年2月22日(622年4月8日)没とされるので、棺台3基も厩戸皇子、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ=用明天皇皇后、厩戸皇子の母)、膳部菩岐々美郎女(かしわで のほききみのいらつめ=厩戸皇子妃)ら3人の合葬墓(三骨一廟)だとするのが一般的な考えです。

『聖徳太子伝暦』によれば、后の膳部菩岐々美郎女は、厩戸皇子(聖徳太子)には大変信頼され、皇子は「死後はともに埋葬されよう」と述べていることから、同じ陵に埋葬されたと考えるのが妥当。
しかも厩戸皇子(聖徳太子)とともに病となり、太子が亡くなる前日(旧暦2月21日)に没しているのです。
また、母の穴穂部間人皇女も前年の推古天皇29年(621年)12月21日、崩御。
わずか3ヶ月間に亡くなった3人ということに。

中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東の乾漆棺(麻布を漆で貼り重ねる技法によってつくられた棺)に厩戸皇子(聖徳太子)、西の乾漆棺に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られていると推測されます。
『日本書紀』には厩戸皇子(聖徳太子)は磯長陵に葬ったことのみ記され、母と后に関しては触れられていません。

古墳を守る叡福寺は、山号も磯長山(しながさん)で、寺伝によれば厩戸皇子(聖徳太子)は、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたといい、寺も推古天皇が聖徳太子墓守護のための開基したと伝わります。

叡福寺北古墳

叡福寺境内から眺めた叡福寺北古墳の全景

 

叡福寺北古墳 DATA

名称 叡福寺北古墳/えいふくじきたこふん
所在地 大阪府南河内郡太子町太子2146
関連HP 太子町公式ホームーページ
電車・バスで 近鉄長野線喜志駅から金剛バス上ノ太子行きで太子前駅下車、徒歩すぐ
ドライブで 南阪奈道路太子ICから約3km
駐車場 叡福寺駐車場を利用
問い合わせ TEL:0721-98-0019
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

叡福寺

2018.02.11
 

 

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