木津川飛行場跡

木津川飛行場跡

大正9年、逓信省に新設された航空局が大阪で初となる民間空港の設置場所に白羽の矢を立てたのが大正区船町の木津川河口。ここに昭和4年4月1日に木津川飛行場をオープンさせたのです。木津川の河口部に空港を設置したのは当時は飛行機を水上から飛ばすことも行なわれていたため。新木津川大橋北詰に木津川飛行場跡の石碑が立っています。

大阪の民間航空の歴史は木津川飛行場から始まった

大正12年7月から日本航空会社が、水上機を大阪~別府間に飛ばしていましたが、飛行場開設後に就航したのは日本航空輸送会社と日本航空輸送研究所。

大正13年には大阪毎日新聞社と提携した後藤勇吉が「春風号」(川西K6型)が、日本初の日本一周飛行(全行程4395km、実飛行時間33時間52分、平均時速130km/h)に成功していますが飛び立ったのはこの木津川飛行場です。

昭和4年以降に、日本航空輸送会社が大阪〜名古屋、大阪〜福岡間に毎日2往復、日本航空輸送研究所が大阪〜高松、大阪〜南紀白浜間に週末1往復運航しました。
日本航空輸送研究所は、ドイツから輸入した、ユンカース・F-13型旅客機(4人乗り)にフロートをつけ、水上機として運航したため、高松、南紀白浜も海上に着水していました。

昭和6年9月13日にはリンドバーグ夫妻も水上飛行機で霞ヶ浦から飛来し、京都奈良などを観光後(京都では都ホテルに宿泊)、9月17日、福岡・名島水上飛行場目指して飛び立っています。

この木津川飛行場は急発展し、昭和13年の年間発着は定期便だけで5107回、不定期便が3676回とあわせて1万便に迫る勢い。
旅客数も1万人を超え国内トップクラスの空港に成長しています。

離発着便が増えて手狭になったことに加え、クレーンで引き上げて滑走路あるいは水路に移送するという方式などが不便、アクセスが悪い、周辺工場のスモッグの影響があることから、大阪市は早くも昭和6年に新空港を南港に国際空港として建設する計画(大和川国際飛行場計画)を発表しますが、海軍から狭すぎるなどのクレームが付き、戦時下となって計画は白紙に戻されています。

逓信省は、予備飛行場として大阪第二飛行場を昭和14年1月、兵庫県伊丹市に開設し(現在の大阪国際空港=伊丹空港)、陸上からの発着を移転、その後、大阪第二飛行場が国際空港として発展するにつれ、木津川飛行場が衰退していき、廃止となっています。

大阪市大正区船町の中山製鋼所第四工場一帯が木津川飛行場の跡地で、中山製鋼所構内に飛行機格納庫が残されています。

木津川飛行場跡
名称 木津川飛行場跡/きづがわひこうじょうあと
所在地 大阪府大阪市大正区船町1-3
関連HP 大阪市公式ホームページ
電車・バスで JR・大阪メトロ大正駅から大阪シティバスで中船町
駐車場 なし
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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