大阪城公園・大手見付石

大阪城公園・大手見付石

大阪府大阪市中央区、大阪城公園となった大阪城内で、城郭の南西に位置する大手門を入った桝形虎口に連なる巨石のひとつが、大手見付石。高さ5.1m、幅11.0m、表面の面積47.98平米、推定重量108tという大阪城公園第4位の巨石で、左に二番石(5位)、右に三番石(8位)と3個の巨石が並んでいます。

大手見付石と二番石はもともとはひとつの石だった!

大阪城公園・大手見付石
大手門の枡形に3つの巨石が連続して配置(写真右手)

二番石は、高さ5.3m、幅8.0m、表面面積47.98平米、推定重量85t、三番石は高さ4.9m、幅7.9m、表面面積35.82平米で、推定重量は80tという巨石です。
大手門(追手門)は、城の玄関口であるため、門をくぐった桝形(四角い広場)で、巨石が3つ並んでいるのは、まさに登城する大名などを威圧し、驚かせ、幕府の権威を見せつけるための工夫です。

登城ルート途中では、この先、本丸入口の桜門をくぐった先にも、城内随一の巨石となる蛸石(たこいし)が配されるという念の入れようです。

大阪大学大学院基礎工学研究科の佐藤宏介教授のグループによる研究の結果、大手見付石と二番石はもともとはひとつの巨大な石だったことが判明しています。
巨石を写真測量し、バーチャル空間の中で二つの巨石を精密に嵌め合わせることに成功、矢穴を開けて2分割したことがわかったのです。

採石されたのは、小豆島の大坂城石垣石切・千軒丁場跡(千軒地区/香川県の史跡)で、180t以上の巨石を現地で2分割して舟に積んだと推測できます(桜門枡形の蛸石が推定130t)。
千石船と通称される北前船に使われた弁財船、そして菱垣廻船(ひがきかいせん)は米を1000石(150t)積み込むことができたので、それが限界だったと思われます。
しかも徳川幕府は大坂城改修以前の慶長14年(1609年)、軍船・商船を問わず西国大名の500石以上の船を没収し、巨石の運搬は並大抵のことではなかったと推測できます。

徳川幕府が元和6年(1620年)〜寛永7年(1630年)という長い年月を費やして天下普請(てんかふしん)で大坂城を見違えるように大改修したのは、豊臣政権の終焉と再起のないことを印象づけるためだったであろうことは容易に想像が付きます。
寛永12年(1635年)、幕府は武家諸法度を改訂し、大船建造禁止令を発布し大名の水軍力を抑止しています(500石以上の船の禁止を全国化、3年後に商人の商船だけ建造を許可)。

大手門周辺の石垣、巨石は、熊本藩主・加藤忠広(かとうただひろ=加藤清正の三男で、2代藩主)の担当でしたが、大坂城の完成後の寛永9年(1632年)、江戸参府途中の品川宿で足止めされ、池上本門寺で上使・稲葉正勝から改易の沙汰を受け、そのまま出羽庄内藩主・酒井忠勝の預かりに(原因は家臣団との対立とも)。
以降、熊本藩は細川家の治世となったのです。

ちなみに大阪城の巨石ランキングは、昭和49年、大阪城天守閣館長・渡辺武さん(歴史学者で織豊時代研究の専門家)が発表、後に改定したものが現在もベースとなっています。

大阪城公園・大手見付石

大坂城(大阪城公園)の巨石ランキング TOP10

順位巨石の名称場所高さ表面面積担当藩主
1位蛸石桜門桝形虎口5.5m11.7m59.43平米岡山藩主・池田忠雄
2位肥後石京橋門桝形虎口5.5m14.0m54.17平米岡山藩主・池田忠雄
3位振袖石桜門桝形虎口4.2m13.5m53.85平米岡山藩主・池田忠雄
4位大手見付石大手門桝形虎口5.1m11.0m47.98平米熊本藩主・加藤忠広
5位大手二番石大手門桝形虎口5.3m8.0m37.90平米熊本藩主・加藤忠広
6位碁盤石桜門桝形虎口5.7m6.5m36.50平米岡山藩主・池田忠雄
7位二番石京橋門桝形虎口3.8m11.5m36.00平米岡山藩主・池田忠雄
8位大手三番石大手門桝形虎口4.9m7.9m35.82平米熊本藩主・加藤忠広
9位四番石桜門桝形虎口6.0m5.0m26.90平米岡山藩主・池田忠雄
10位竜石桜門桝形虎口3.4m6.9m23.00平米岡山藩主・池田忠雄
大阪城公園・大手見付石
名称 大阪城公園・大手見付石/おおさかじょうこうえん・おおてみつけいし
所在地 大阪府大阪市中央区大阪城3-11
関連HP 大阪城公園公式ホームページ
電車・バスで 大阪メトロ・京阪天満橋駅から徒歩10分
ドライブで 阪神高速13号東大阪線森之宮出口から約800m
駐車場 大阪城公園駅前駐車場(171台/有料)、森ノ宮駐車場(100台/有料)
問い合わせ 大阪城パークセンター TEL:06-6755-4146/FAX:06-6755-4149
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

大阪城公園

大阪の中央に位置する、総面積106.7haの広大な公園。都心にある緑溢れる公園は「大阪みどりの百選」にも選定されている。もともとこの地には一向宗(浄土真宗)本願寺派の拠点・石山本願寺がありましたが、1580(天正8)年の織田信長との石山合戦

大阪城天守閣

大坂城(大阪城)の天守閣は、天正11年(1583)、天下統一を目指した豊臣秀吉によって築城され、1615(慶長20)年、大坂夏の陣で落城後、1626年(寛永3)年に徳川幕府によって再び築かれたもの。現存する天守閣の石垣や巨石は瀬戸内海の島々

大阪城公園・蛸石

大阪城公園・蛸石

大阪府大阪市中央区、大阪城公園となった大阪城内でもっとも巨大な石が、桜門枡形巨石の蛸石。大阪城本丸の南端、内堀(空堀)を渡った桜門(国の重要文化財)の枡形にある巨石で、縦5.5m、横11.7m、厚さ75cm、面積は36畳(59.43平米)、

大阪城公園・桜門

大阪城公園・桜門

大阪府大阪市中央区、大阪城公園となった大阪城内で本丸の正面玄関にあたるのが、桜門。天下普請により枡形虎口の普請が完成した寛永元年(1624年)頃の創建と推測され、現存する門は、明治20年に第四師団司令部を城内に置いた陸軍が修築したもので、国

豊國神社

天下を取った豊臣秀吉が祭神の神社。明治12年、豊国神社の大阪別社として中之島(現、大阪市中央公会堂が建つ地)に創建。昭和36年に大阪城公園内(大坂城二の丸)に移築されました。出世開運の社として有名です。明治天皇が再興を布告し大阪に創建された

大阪城公園・乾櫓

大阪城公園・乾櫓

大阪府大阪市中央区大阪城、国の特別史跡となっている大阪城公園で、乾(いぬい=西北隅)の方向に建つのが乾櫓。櫓の西側と北側が西外堀に面する櫓で、大阪城公園内に現存する建築物としては、同じ西外堀に臨んで建つ千貫櫓とともに最古のもの。国の重要文化

千貫櫓

大阪城公園・千貫櫓

大阪府大阪市中央区大阪城、国の特別史跡となっている大阪城公園で、大手門を守備する隅櫓(すみやぐら)が、千貫櫓。大手門を北側から防御する役割を担った2層の櫓で、元和6年(1620年)創建、国の重要文化財に指定されています。昭和36年に解体修理

大阪城公園・大手口多門櫓

大阪城公園・大手口多聞櫓

大阪府大阪市中央区大阪城、国の特別史跡となっている大阪城公園で、大手枡形を形成するのが大手口多聞櫓。北側の千貫櫓(国の重要文化財)とともに大手門を守備する重要な櫓門で、現存する建物は嘉永元年(1848年)築で、国の重要文化財に指定されていま

大阪城公園・六番櫓

大阪城公園・六番櫓

大阪府大阪市中央区の大阪城跡、国の特別史跡となっている大阪城公園で、ニの丸南面の南外堀に面しては一番櫓から七番櫓まで、2層2階の同規模の櫓が7棟並んでいましたが、現在では六番櫓、一番櫓のみ残され、ともに国の重要文化財に指定されています。南外

大阪城・一番櫓

大阪城公園・一番櫓

大阪府大阪市中央区、国の特別史跡となっている大阪城公園で、ニの丸南面の南外堀に面して並んだ一番櫓から七番櫓のうち、六番櫓とともに現存する2つの櫓のひとつが一番櫓。国の重要文化財に指定されていて、外堀を隔ててその勇姿が確認できます。南外堀越し

大阪城公園・焔硝蔵

大阪城公園・焔硝蔵

大阪府大阪市中央区の大阪城跡、国の特別史跡となっている大阪城公園で、国の重要文化財に指定される10棟の遺構のひとつが、焔硝蔵(えんしょうぐら)。焔硝とは黒色火薬のことで、江戸時代の石造火薬庫。貞享2年(1685年)築造の貴重な建築物で、現存

大阪城・大手門

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大阪府大阪市中央区、大坂城の正面玄関が、大阪城公園・大手門。本丸、二の丸、西の丸跡などを整備した大阪城公園でも、この門をくぐって、桜門へと向かうのが登城ルートの筆頭で、大手枡形の一部を形成する大手門は国の重要文化財に指定されています。大坂城

大阪城公園・金蔵

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大阪府大阪市中央区、大阪城公園となっている大坂城本丸跡で、小天守台上の金明水井戸屋形とともに国の重要文化財に指定される江戸時代の遺構が、金蔵(きんぞう・かねぐら)。その名の通り、徳川幕府の金貨・銀貨の保管庫で、宝暦元年(1751年)に2階建

大阪城公園・金明水井戸屋形

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大阪府大阪市中央区、大阪城公園にある重要文化財(10棟)に指定される徳川時代の遺構のひとつが、金明水井戸屋形。本丸にある復興天守「大阪城天守閣」の横、小天守台にある井戸で、昭和44年の解体修理の際、天守と同じ寛永3年(1626年)の創建であ

 

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