大分県竹田市の市街中心部、岡城の城下町を見下ろす絶好の地に建つ神社が、広瀬神社。祭神は、日露戦争での武勇で知られ、戦時中に軍神として神格化された当地出身の海軍中佐・広瀬武夫(ひろせたけお)。境内には広瀬武夫記念館もあり、遺品などを展示しています。
日露戦争で戦死した広瀬中佐が祭神
広瀬武夫は、幕末の慶応4年5月27日(1868年7月16日)、岡藩士・広瀬友之允の次男として生誕。
生誕した自宅は、明治10年の西南戦争により焼失し、飛騨高山に転居し、煥章小学校(かんしょうしょうがっこう=現・高山市立東小学校)を卒業。
小学校教師を務めますが、明治18年に海軍兵学校に入学。
測量艦「海門」の甲板士官時代、清水港に寄港し、清水次郎長と懇意になってもいます。
その後、日清、日露戦争に従軍し、明治37年の旅順港作戦において、閉塞船「福井丸」の指揮をしていましたが、ロシア軍駆逐艦の魚雷を受け、沈没の危機に。
自爆用の爆薬に点火するため船倉に向かった部下の杉野孫七上等兵曹が戻らないことに気が付き、沈みゆく「福井丸」に戻り、船内を3度に渡り捜索、見つけることができず救命ボートに戻った際に頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死(35歳、その日に中佐に昇進、墓所は青山霊園)。
昭和10年には、部下を助けるために被弾したその壮絶な死により、海軍出身の内閣総理大臣・岡田啓介(おかだけいすけ=アメリカとの戦争を回避することに尽力、戦時中は和平派で反東條)、地元の黒川健士らの手により、軍神第1号として故郷の豊後竹田に広瀬神社が創建されています。
極東国際軍事裁判で主席検察官を務めたジョセフ・キーナン(Joseph Berry Keenan)が、「戦前日本を代表する平和主義者」と称した岡田啓介が、軍神と讃えられた広瀬武夫の神社建立に尽力したのは、海軍兵学校で広瀬武夫と同期で、その人柄を知っていたからと、軍靴の高鳴る時代的な背景で。
広瀬神社の境内には伊豆坂から丘越えで弥五兵衛坂を通って武家地の鷹匠町と城下町の上町通りを結ぶ江戸時代の城下道も現存。
そのほか、広瀬武夫の胸像、城下町一望の展望スペースなどがあります。
旅順港閉塞作戦の活躍で軍神となった広瀬武夫は、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)にも登場。
NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』では藤本隆宏が好演しています。
明治43年には東京・万世橋駅前に銅像が立つ、明治45年には『廣瀬中佐』の歌が生まれるなど、戦前は軍神として国威発揚に利用されました。
昭和22年、戦犯銅像であることを理由に万世橋駅前の銅像も東京都によって自主的に撤去されています。
広瀬神社境内の胸像も、戦時中に供出されており、戦後の復元です。
広瀬神社の鳥居の前に立つ立像は、「広瀬武夫ブロンズ像建立実行委員会」が平成22年に竹田市立歴史資料館の広場に建立したもので、平成29年に広瀬神社に移設。
広瀬神社(広瀬武夫記念館) | |
名称 | 広瀬神社(広瀬武夫記念館)/ひろせじんじゃ(ひろせたけおきねんかん) |
所在地 | 大分県竹田市竹田2020 |
関連HP | 竹田市観光ツーリズム協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR豊後竹田駅から徒歩15分 |
ドライブで | 東九州自動車道大分光吉ICから約39km |
駐車場 | なし |
問い合わせ | 広瀬神社(広瀬武夫記念館) TEL:0974-62-3074 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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