大分県竹田市、天神山に築かれた岡藩の藩庁が、岡城(豊後竹田城)。追手側、玄関門となる大手門に対し、搦手(からめて=裏口)にあたるのが下原門(しもばるもん)。下原門跡の石垣のみが現存しています。中川秀成(なかがわひでしげ)入城以前には、ここが大手門だったと伝えられています。
岡城の搦手(からめて)を守備する門が下原門
築城の名手・藤堂高虎(とうどうたかとら)は、慶長16年(1611年)、肥後熊本藩の監国に赴くため、熊本城に向かう際、岡城に立ち寄り、東向きの大手門は、朝日が当たると戦いで不利となることから、大手門を東向きの下原門から現在の西向きの大手門に改造すべきことを指摘。
初代藩主となった中川秀成は、慶長17年(1612年)に没していますから、最晩年に藤堂高虎の助言を受け、大手門を搦手門に改修したことに。
枡形の虎口、横矢掛けとなった実戦的な構造で、攻め手を門の正面に誘導し、櫓台の上から矢や鉄砲を射掛ける仕組みです。
東側の石垣には、石垣のズレを防ぐために、石材にホゾを切り、石と石の間の千切(ちぎり)に楔(くさび)をはめ込んでいます。
石垣の石は、阿蘇山の大噴火で噴出した火山灰などが堆積してできた阿蘇溶結凝灰岩。
ガラス質が解けて混じり、虎の模様のように見えることから虎目石とも呼ばれています。
それを形を整えた切石にして積み重ね、見事な石垣を築いているのです。
見事な高石垣の積み方なども、築城の名手、藤堂高虎の助言があったのかも知れません。
現在の岡城の登城ルートでは最奥の場所に位置し、比較的に未整備のため、訪れる人も少ない、穴場です。
往時には、下原門と本丸の間に、歴代藩主の位牌が祀られる御廟所があり、「東の郭」と呼ばれていました。
中世の志賀親次(しがちかつぐ)時代には、「東の郭」にあたる部分が岡城の主郭で、下原門にあたる場所が大手門でした。
岡城・下原門跡 | |
名称 | 岡城・下原門跡/おかじょう・しもばるもんあと |
所在地 | 大分県竹田市竹田 |
関連HP | 竹田市岡城跡公式ホームページ |
電車・バスで | JR豊後竹田駅から徒歩20分 |
ドライブで | 東九州自動車道大分光吉ICから約41km |
駐車場 | 200台/無料 |
問い合わせ | 竹田市教育委員会 TEL:0974-63-1111/FAX:0974-63-2373 |
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