大分県大分市、佐賀関半島の付け根に位置する古墳が、築山古墳(つきやまこふん)。墳丘長90mという前方後円墳で、大分県内第3位となる巨大古墳です(国の史跡)。豊後水道を支配した海部民(あまべのたみ)が暮らした土地で、卓越した海洋技術を背景に、ヤマト王権との交流が生んだ巨大古墳といえるかもしれません。
ヤマト王権との交流のあった海部民の祈祷師の墓!?
海部民が暮らした土地での巨大な古墳は、西側の丹生川河口に築かれた亀塚古墳(116m)があり、海部王の墳墓だと推測されています。
2年半の歳月を費やして17万人という労働力を使って亀塚古墳が築かれたのは5世紀初め(古墳時代中期)。
築山古墳は5世紀中頃(古墳時代中期)で、亀塚古墳の後継的な存在。
ともに水軍を有した海人部の謎を解き明かす貴重な遺構になっています。
前方部と後円部を分けるように道路が開通し、住宅の建設で前方部が開削されるなどしていましたが、埋葬部は盗掘を逃れ、2基の箱式石棺から、1体の女性(北棺)、3体の人骨(うち1体が女性/南棺)が出土しています。
副葬品も鉄剣、管玉など多数出土し、女性の人骨の腕には南海のイモガイ製の貝輪が装着され、頭上に銅鏡が置かれていました。
被葬者は定かでありませんが、女性が単独で埋葬されているため、かなりの権力を有した祈祷師(同時に首長だった可能性も)、地元で信仰される速吸日女(はやすいひめ)、一部には卑弥呼(ひみこ)の墓と考える人もいますが、卑弥呼は3世紀なので年代が一致しません。
臼杵市の下山古墳の被葬者も女性首長であること、出土した多数の鉄製武器や農工具類は畿内から配布されていると考えられること、畿内の古墳と同様に円筒埴輪が用いられていることから、ヤマト王権と交流のあった女性首長だと推測できます。
海部民とヤマト王権の密なる関係とは!?
5世紀前半、海部地域では亀塚古墳、築山古墳、臼杵市の臼塚古墳、下山古墳と、大型の前方後円墳が次々と築かれ、豊後で最も多くの大型古墳が集中した一帯です。
このことは、ヤマト王権が、瀬戸内海から朝鮮半島に至る海上交通路を掌握する上で、高度な航海技術を有した海部民との関係を重視していたことの証にもなっています。
海部民に関しては、亀塚古墳公園の「海部古墳資料館」で詳しく解説されているので、亀塚古墳とあわせて見学を。
築山古墳(大分市) | |
名称 | 築山古墳(大分市)/つきやまこふん(おおいたし) |
所在地 | 大分県大分市本神崎992 |
関連HP | 大分市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR幸崎駅から徒歩15分 |
ドライブで | 東九州自動車道宮河内ICから約12km |
問い合わせ | 大分市教育委員会事務局教育部文化財課 TEL:097-537-5639/FAX:097-536-0435 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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