木曽呂の富士塚

木曽呂の富士塚

川口市の見沼通船堀東縁の東側に位置する大きな富士塚が木曽呂の富士塚(きぞろのふじづか)。東京周辺に4ヶ所ある国の史跡になった貴重な富士塚のひとつ。寛政12年(1800年)に富士講の一派である丸参講の信者である蓮見知重の発願で、見沼代用水東縁と見沼通船堀東縁の連絡点の崖上に築造されたものです。現存する埼玉県最古の富士塚です。

西側から眺めるとそびえるほどに巨大

高さ(盛り土部)5.4m、直径20mの富士塚ですが(塚全体が盛り土)、西側の見沼代用水東縁側から眺めるとそびえ立つ小山のように見え、とても人工的な築山とは思えないほどの大きさです。

頂上には火口が掘られ、中腹をめぐるお中道(おちゅうどう)、山麓の胎内めぐりの穴などが設けられ、実際の富士山をそっくりと模していることがわかります。

周囲には、丸参講により造立された石造物が多く残され、文化年間(1804年〜1818年)など、創建当初の石碑も残されています。
富士塚の北側には浅間神社の社殿が鎮座。

「富士は世界の鎮守」として、江戸時代に隆盛した富士登山を目的として講中組織、富士講。
天和6年(1672年)、江戸に「ツキタオシ」という奇病が流行し、3日で1000人の死者を出す中で、角行師はフセギという御符を授け、祈祷(きとう)の力によって多くの患者の命を救いました。
こうしたことから、富士講は江戸とその周辺に住む庶民の信仰を集めたのです。
江戸から富士山北麓の富士吉田までは健脚でも片道3日、吉田から頂上までは少なくとも往復2日、合計8日間の旅で(運よく好天に恵まれた場合)、しかも女人禁制。
富士塚は、江戸高田の行者・藤四郎が、老若男女だれでも富士山に登山できるようにと、安永9年(1780年)、高田水稲荷の境内に塚を築いたのが始まり。

木曽呂の富士塚を築いた丸参溝は、富士山中(烏帽子岩)への入定を果たし、「身禄講に非ざれば富士講に非ず」とされた食行身禄(じきぎょうみろく)の娘の流れから起こった講中です。
武蔵国足立郡鳩ヶ谷(現埼玉県川口市)の小谷三志の不二道も食行身禄の教えを受け継いだ富士講で、鳩ヶ谷の地蔵院に小谷三志の墓があります(鳩ヶ谷地区には今も富士講が健在です)。

川口市内には、川口神社(川口市金山町6-15)、東沼神社(川口市差間2-15-45)、氷川神社(川口市青木町5-18-48)などに富士塚があります。

木曽呂の富士塚
名称木曽呂の富士塚/きぞろのふじづか
所在地埼玉県川口市東内野596
関連HP川口市立文化財センター公式ホームページ
電車・バスでJR東浦和駅から徒歩20分
ドライブで東京外環自動車道川口中央出口から約2.5km
駐車場5台/無料
問い合わせ川口市立文化財センター TEL:048-222-1061/FAX:048-222-2007
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
富士塚

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