埼玉県深谷市の血洗島(ちあらいじま)にあるのが渋沢栄一生家「中の家」(なかんち)。近代日本経済の父・渋沢栄一氏の生家で、現存する主屋は、渋沢栄一の妹婿・渋沢市郎が明治28年に上棟した天窓のある典型的な養蚕農家。奥の10畳の部屋は、渋沢栄一が帰郷した際、寝泊まりするために念入りに作らせたと伝えられています。
主屋内部の見学(立ち入り)も可能
正門、東門とも門は、薬医門。
正門の扉は欅(ケヤキ)の一枚板で、渋沢市郎が大木を探したというこだわりの門になっています。
明治44年築の副屋は、「お店」と通称されていたことから藍玉の取引きに使われたと推測されています。
「中の家」と呼ばれるのは、渋沢家の分家で、各渋沢家の家の位置関係に由来するもの(中ほどにある分家という意)。
東京都北区飛鳥山にあった渋沢栄一の私邸は、空襲で焼失したため、現存するゆかりの家といえば、この「中の家」のみということに。
副屋の前には、渋沢家歴代の墓地が、そして生家の北東には、栄一の雅号「青淵」の由来となった池の跡があり、「青淵由来の碑」が立っています。
ちなみに渋沢栄一の父・渋沢市郎右衛門は、渋沢一族の「東の家」から男子のいなかった「中の家」に婿入りし、養蚕や藍玉づくり、その販売で財を成し、「中の家」を再興。
渋沢栄一は、天保11年2月13日(1840年3月16日)に「中の家」に生まれ、幕末の青年期をこの家の長男として過ごし、文久3年(1863年)、23歳のときに高崎城乗取り計画の中止(従兄弟・尾高長七郎の懸命な説得により中止)で、実家を離れています。
その後、江戸遊学の際に交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙で、一橋慶喜に仕えることになり、パリ万博の視察などを経験、世界に目を向けるようになるのです。
「中の家」は、一般的な農家と異なり、藍玉原料の買い入れと販売を行なっていたため、商いに対する感性も自然に身についたと推測できます(父とともに信州、上州に藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行ない、14歳からは単身で藍葉の仕入れに出かけています)。
晩年、血洗島の鎮守、諏訪神社の祭礼には駆けつけたといい、故郷を愛する心が伝わってきます。
「渋沢栄一生地」として埼玉県の旧跡になっています。
令和元年から3年間を費やした主屋の耐震補強工事、そして往時の状態への復元工事も終了し、主屋内部も、立ち入り可能な形で一般公開されています。
「渋沢栄一アンドロイド・シアター」、煉瓦製カマド跡、大河ドラマ『青天を衝け』のセットや衣装などみどころも豊富。
渋沢栄一生家「中の家」 | |
名称 | 渋沢栄一生家「中の家」/しぶさわえいいちせいか「なかんち」 |
所在地 | 埼玉県深谷市血洗島247-1 |
関連HP | 渋沢栄一記念館公式ホームページ |
電車・バスで | JR深谷駅からタクシーで20分 |
ドライブで | 寄居スマートICから約13km |
駐車場 | あり |
問い合わせ | 渋沢栄一記念館 TEL:048-587-1100 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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