利根川から取水し、享保13年(1728年)に完成した農業用水が見沼代用水。現在も利根大堰で取水し、埼玉県行田市、さいたま市、川口市など14市2町、85kmの農業用水路が流れています。埼玉県・東京都の葛西用水路、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水のひとつ。
見沼代用水の完成で生まれた見沼たんぼ
伊奈忠次(いなただつぐ)は、利根川東遷事業に着手し、その子、伊奈忠治(いなただはる)は、事業の継続とともに現・さいたま市東部に広がっていた見沼に8町に渡る八丁堤と呼ばれる堤防を築いて、農業の溜池・見沼溜井(みぬまためい)を築きました。
見沼溜井から引水した見沼用水によって現在のさいたま市や川口市一帯では新田開発が進みますが、開発によって見沼溜井だけの水では不足するようになったのです。
こうしたことを背景に、享保12年(1727年)、 8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)の命を受けた井沢弥惣兵衛(いざわやそべえい)が、新たに利根川から用水を引くことを考案します。
これが見沼代用水で、見沼溜井は干拓して新田開発し(見沼たんぼ)、排水路として中悪水路(現・芝川)を掘削しています。
見沼に代わる用水なので「見沼代用水」と呼ばれたのです。
見沼代用水は、利根川から見沼たんぼ(旧・見沼溜井)まで多くの水路や街道を横断するため、元荒川など川の下に水路をくぐらせる伏越(ふせこし)を53基、綾瀬川など川の上に水路を渡す掛渡井(かけとい)4基、関枠(取水口)は大小合わせて164基、主要な橋は(石橋・土橋合わせて)90ヶ所もありました。
総労働人数90万人、その賃金1万5000両、橋などの構造物の費用5000両を費やし大土木工事で、現在のような重機のない時代にも関わらず、多くの村人の協力で簡単な道具だけを使い着工後6ヶ月という短い工期で完成させていまるのです。
水量が多い利根川から水を引いたのは、雪解け水が豊富に流れるので、田に水が必要な時期に安心して取水することができたから。
見沼代用水の水を星川に合流させたのは、星川を水路の一部にすることで工期が短縮できるため。
見沼代用水は、綾瀬川を越えた直後に台地の縁にそって流れるように、2つに分流し、全長22kmの見沼代用水西縁(みぬまだいようすいにしべり)、全長16kmの見沼代用水東縁(みぬまだいようすいひがしべり)に分かれ、干拓して開発した水田に流れた後に現在の川口市を流れる芝川に配水しています(芝川は現在、新芝川が整備され、芝川水門で荒川に合流)。
見沼代用水を東縁と西縁の2つの用水に分けたのは、干拓した田の両側から水を田に入れることができるため。
さらに見沼田んぼの中央を流れる芝川を排水路として使い、田んぼの排水を流したのです。
見沼代用水西縁と見沼代用水東縁の間には、パナマ式運河の見沼通船堀を設置しています。
見沼溜井を埋め立てた見沼たんぼは、1200町歩、毎年5000石の年貢米を生産する田んぼに変貌しています(完成から現在まで埼玉県東部に位置する1万haを超える広大な農地に用水を供給)。
見沼代用水は、農林水産省の疏水百選、国際かんがい排水委員会(ICID)の世界かんがい施設遺産に選定。
紀州藩出身の井沢弥惣兵衛と徳川吉宗
井沢弥惣兵衛(いざわやそべえい)は、紀州・溝ノ口村(現・和歌山県海南市野上新)の出身。
28歳で2代藩主・徳川光貞に召し抱えられ、5代藩主となった徳川吉宗にも仕えています。
紀州藩でも土木技術者の大畑才蔵とともに小田井用水(33km)や藤崎井用水(24km)などの工事を担い、紀州流土木技術を開発しています。
こうした紀州藩の土木技術を背景に、8代将軍に就任した徳川吉宗は、紀州から井沢弥惣兵衛を呼び寄せて、見沼代用水の開削、新田開発に従事させたのです。
徳川吉宗が「米将軍」と呼ばれた背景には、こうした紀州藩の土木技術と、井沢弥惣兵衛の活躍があったのです。
海南市にある宗光寺は、井沢弥惣兵衛の菩提寺で、海南市歴史民俗資料館にも井沢弥惣兵衛の功績を紹介する常設展示コーナーが用意されています。
見沼代用水 | |
名称 | 見沼代用水/みぬまだいようすい |
所在地 | 埼玉県 |
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