真田信之ゆかりの典厩寺に巨大な閻魔大王像発見!|長野市

川中島の戦いと、『真田丸』に不思議な関係があるのをご存知だろうか。川中島の戦いは、永禄4年(1561年)、『真田丸』の主な舞台は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い、慶長19年(1614年)、慶長20年(1615年)の大坂の陣と川中島の戦いとは40年近くも離れています。なぜ川中島が真田一族に関係しているのかといえば・・・。

川中島近くにも『真田丸』ゆかりの地が!

信玄と謙信が激突した川中島の戦いは5次に渡って両軍が対峙し、うちもっとも激しい戦いで、ドラマや映画にも描かれているのは永禄4年(1561年)の八幡原の合戦(第四次合戦)。
「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いで、武田信玄は弟の武田信繁、さらには軍師・山本勘助をこの戦で失っています。

長野市篠ノ井杵淵にある曹洞宗の寺、典厩寺(てんきゅうじ)には川中島の戦い(永禄4年・第四次合戦)で討ち死にした武田信繁(武田信玄の弟)の墓があります。
この典厩寺、承応3年(1654年)、松代藩主・真田信之が信繁の官職「左馬助(さまのすけ)」の唐名(官職名を中国の官称にあてはめたもの)の「典厩」から寺号を典厩寺と改めて菩提を弔ったもの。

武田信繁の墓
典厩寺境内にある武田信繁の墓

NHK大河ドラマ『真田丸』ではこの真田信之を大泉洋が熱演しています。
真田信幸の才能を高く評価したのが徳川家康で、真田信幸は家康の申し出で、家康の忠臣・本多忠勝(徳川四天王)の娘、小松姫を正室にしています。

関ヶ原の戦いでは東軍について真田家を存続させ、慶長19年(1614年)、大坂の陣では病気のために出陣できませんでしたが、元和2年(1616年)、上田藩の初代藩主になります。
元和8年(1622年)10月、信濃国松代藩に加増移封。初代の松代藩主になっていたのです。

以降、松代藩は明治2年の版籍奉還まで真田家の治世が続きます。
初代藩主の真田信之は、幼少時代に人質として信玄のもとで暮らしています。信之の「信」は信玄からともいわれています(長篠合戦後の織田軍の諏訪・甲州侵攻で上田に帰郷)。
その関係で外交に長けた知将・武田信繁には思い入れがあったのでしょう。わざわざ寺の名を変えてまで信繁を弔ったのです。

ちなみに真田信之の父、真田昌幸(『真田丸』では草刈正雄)は武田信繁の知性、武勇に心酔し、次男を真田信繁(幸村=『真田丸』では堺雅人)と命名しています。

典厩寺の山門は、真田3代藩主・真田幸道の霊屋の門を移築したもの。
さらに典厩寺・閻魔堂(えんまどう)に鎮座する閻魔大王像は、8代藩主・真田幸貫が、幕末の万延元年(1860年)、川中島合戦後300年を記念し、甲越戦没者の菩提を弔って造らせたもので、身の丈は2丈(約6m)。その大きさは日本一という巨大さです。

典厩寺の歴史を振り返ると、真田家の並々ならぬ思い入れを感じることができます。
「末代まで典厩寺をよろしく」そんな真田信之のメッセージさせ感じることができます。

典厩寺の山門
典厩寺の山門
典厩寺
名称 典厩寺/てんきゅうじ
所在地 長野県長野市篠ノ井杵渕1000
関連HP ながの観光コンベンションビューロー公式ホームページ
電車・バスで JR長野駅から松代行きバスで20分、水沢典厩寺下車、徒歩2分
ドライブで 上信越自動車道長野ICから約2km
駐車場 10台/無料
問い合わせ 典厩寺 TEL:026-292-3335/FAX:026-292-3335
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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