長野市篠ノ井杵淵にある曹洞宗の寺、典厩寺(てんきゅうじ)には川中島の戦い(永禄4年・第四次合戦)で討ち死にした両軍の戦死者6000余名を弔い供養した寺。武田信繁(武田信玄の弟)の墓がありますが、注目は「日本一巨大な閻魔大王像」。本堂の前には閻魔堂に高さ2丈(6m)もの巨像が安置されています。
川中島近くにも『真田丸』ゆかりの地が!
武田信玄と上杉謙信が激突した川中島の戦いは5次に渡って両軍が対決していますが、そのうちもっとも激しい戦いで、ドラマや映画にも描かれているのは永禄4年(1561年)の八幡原の合戦(第四次合戦)。
「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いで、武田信玄は弟の武田信繁、さらには軍師・山本勘助をこの戦で失っています。
この典厩寺、承応3年(1654年)、松代藩主・真田信之が武田信繁の官職「左馬助(さまのすけ)」の唐名(官職名を中国の官称にあてはめたもの)の「典厩」から寺号を典厩寺と改めて菩提を弔ったもの。
平成28年放送のNHK大河ドラマ『真田丸』ではこの真田信之を大泉洋が熱演しています。
真田信之の才能を高く評価したのが徳川家康で、真田信之は家康の申し出で、家康の忠臣・本多忠勝(徳川四天王)の娘、小松姫を正室にしています。
その真田信之、関ヶ原の戦いでは東軍に与(くみ)して真田家を存続させ、慶長19年(1614年)、大坂の陣では病気のために出陣できませんでしたが、元和2年(1616年)、上田藩の初代藩主になります。
元和8年(1622年)10月、信濃国・松代藩に加増移封、初代の松代藩主になっているのです。
以降、松代藩は明治2年の版籍奉還まで真田家の治世が続きます。
閻魔大王像は、川中島合戦後300年を記念し幕末に建立
初代藩主・真田信之は、実は幼少時代に人質として信玄のもとで暮らしています。
真田信之の「信」は信玄からともいわれています(長篠合戦後の織田軍の諏訪・甲州侵攻で上田に帰郷)。
その関係で外交に長けた知将・武田信繁には思い入れがあったのでしょう。
わざわざ寺の名を変えてまで武田信繁を弔ったのです。
ちなみに真田信之の父、真田昌幸(『真田丸』では草刈正雄)は武田信繁の知性、武勇に心酔し、次男を真田信繁(幸村=『真田丸』では主演の堺雅人)と命名しています。
典厩寺の山門は、真田3代藩主・真田幸道(さなだゆきみち)の霊屋の門を移築したもの。
注目の典厩寺・閻魔堂(えんまどう)に鎮座する閻魔大王像は、8代藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)が、幕末の万延元年(1860年)、川中島合戦後300年を記念し、甲越戦没者の菩提を弔って造らせたもので、身の丈は2丈(約6m)。
その大きさは日本一という巨大さです。
典厩寺の歴史を振り返ると、真田家の並々ならぬ思い入れを感じることができます。
「末代まで典厩寺をよろしく」そんな真田信之のメッセージさせ感じることができるのです。
真田信之ゆかりの典厩寺(長野市)に「日本一巨大な閻魔大王像」発見! | |
名称 | 典厩寺/てんきゅうじ |
所在地 | 長野県長野市篠ノ井杵渕1000 |
関連HP | ながの観光コンベンションビューロー公式ホームページ |
電車・バスで | JR長野駅から松代行きバスで20分、水沢典厩寺下車、徒歩2分 |
ドライブで | 上信越自動車道長野ICから約2km |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 典厩寺 TEL:026-292-3335/FAX:026-292-3335 |
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