青石畳通り

美保神社と仏谷寺(ぶっこくじ)を結ぶ全長260mほどの路地が青石畳通り。約500個の石が敷かれた石畳の道は江戸時代の参拝道だったもの。石畳は北前船の物資の積み降ろし作業の効率化を目的に、海石を切り出して江戸時代から大正時代に敷かれたもので、雨に濡れると青く光ることから青石畳通りの名があります。

美保関が繁栄した時代のメインストリート

青石畳通りの両側にはかつて旅籠だった建物や古い民家、北國醤油店、太皷醤油店、桝谷鮮魚店などが残りノスタルジック。
美保関が北前船の寄港地であった港町として、松江街道の宿場町として、美保神社の門前町として栄えた昔を偲ばせています。
各戸の軒下にはその家の屋号と家紋の由来看板が掲げられているので、お見逃しなく。

旅館「美保館」本館は、明治41年築で国の登録有形文化財ですが、やはりかつては和泉屋という回船問屋だったという。
「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」(水産庁)にも選定されています。

中世以降の美保関の繁栄を知る
中世には美保関をめぐって出雲守護・京極氏、伯耆守護・山名氏、安来荘・美保郷地頭・松田氏などが激しく武力衝突を繰り返しています。
尼子氏は戦国時代に尼子経久(あまごつねひさ)が美保関を領有、さらに室町幕府に対して美保関公用銭の段銭の徴収拒否を貫いて権力基盤を築いています。
戦国武将にとって美保関の領有は死活問題でもあり、1570(元亀元)年の、尼子・毛利の死闘による戦火で美保神社や美保関の町並みは焼き尽くされてしまいます。
江戸時代になると、幕府は美保関に御番所を置いて船舶の出入りを監視。
同時に舟税を徴収しています。
現在の美保関の町並みは、町家70戸を焼失した1800(寛政12)年の大火以後に整ったもの。
ちなみに美保関に海岸沿いの道路が到達するのは、明治44年のこと。
これまでは山越えか、舟運に頼っていたのです。
青石畳通り
名称 青石畳通り/あおいしだたみどおり
所在地 島根県松江市美保関町美保関
関連HP 松江観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR松江駅から一畑バス美保関ターミナル行きで40分、終点下車、美保関町民バス美保関行きに乗り換えて30分、終点下車、すぐ
ドライブで 米子自動車道米子ICから約40km
駐車場 美保関地区駐車場(40台/無料)
問い合わせ 松江観光協会 TEL:0852-27-5843/FAX:0852-26-6869
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

美保神社

2017年10月31日

 

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