平治の乱で、父・義朝が知多半島で入浴中に暗殺され、源頼朝も死罪が確実視されていました。そんな世情の中、源頼朝は、平清盛の継母・池禅尼の命乞いで奇跡的に助命され、永暦元年(1160年)、伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流されています。この蛭ヶ小島だとされるのが伊豆の国市にある蛭ヶ島公園です。
源頼朝の伊豆配流の地(伝承地)
源頼朝の助命の背景には、頼朝の実母・由良御前(ゆらごぜん)が熱田大宮司(熱田神宮の宮司)の娘で、当時朝廷に力を有した熱田神宮の嘆願があったと推測できます。
源頼朝は永暦元年(1160年)2月(14歳)から、1180(治承4)年8月に旗挙げする34歳までの20年間を伊豆で過ごしているのです。
配流先は、『吾妻鏡』には「蛭島」と記されていますが、歴史的には伊豆に流されたことが明確なだけで、現在の蛭ヶ島公園はあくまでも江戸時代の比定。
伊豆をくまなく巡視した地元の学者・秋山富南(あきやまふなん/1723年~1808年)が伊豆国全土の地理、地形、里程、村落、川、さらに天災地変などを詳細に記録した『豆州志稿』(ずしゅうしこう/全13巻)の編纂で導き出した結論で、寛政2年(1790年)建立の蛭島碑記も立っています。
『豆州志稿』は完成まで12年を費やし寛政12年(1800年)の刊行なので、刊行前に蛭島碑記が、確固たる信念で建立されたことがわかります。
残念ながら、現代の発掘調査では平安時代末期の遺構は出土していません。
それでも、北条氏の要害だった韮山城(にらやまじょう)、狩野川の東岸にあった北条氏の居館(円成寺跡/北条政子の居館)、北条時政が、源頼朝・北条政子の新居として与えた地(現在の成福寺)にも近いことから、このあたりだったことは可能性大。
蛭ヶ島公園内の茅葺き(かやぶき)建築は江戸時代の農家「上野家住宅」を移築したもの。
頼朝と政子をイメージした「蛭ヶ島の夫婦(ふたり)」像も仲睦まじく立っています。
公園には、無料休憩所「蛭ヶ島茶屋」があり、無料のお茶サービスがあり、軽食も可能です。
蛭ヶ小島(蛭ヶ島公園) | |
名称 | 蛭ヶ小島(蛭ヶ島公園)/ひるがこじま(ひるがしまこうえん) |
所在地 | 静岡県伊豆の国市四日町17-1 |
関連HP | 伊豆の国市公式ホームページ |
電車・バスで | 伊豆箱根鉄道韮山駅から徒歩10分 |
ドライブで | 東名高速道路沼津ICから約15.9km |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 伊豆の国市観光協会 TEL:055-948-0304 |
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