家康手植のミカン

家康手植のミカン

静岡市葵区、大御所となった徳川家康の居城、駿府城の本丸と二の丸跡を整備した駿府城公園。その本丸跡、徳川家康公之像近くににあるのが、家康手植のミカン。家康手植の蜜柑(みかん)の名で、静岡県の天然記念物にも指定されています。

令和3年にゲノム解析で紀州ミカンであることも判明!

家康手植のミカン

大御所として駿府城に隠居した大御所時代、紀州藩から献上された鉢植えの紀州ミカンを駿府城本丸に移植したと伝えられるのが、家康手植のミカン。
徳川家康は、慶長10年(1605年)に将軍職を秀忠に譲り、駿府城に移ったのは、慶長12年(1607年)のこと。
李氏朝鮮との国交を回復などの大御所政治の始まりです。

この時の紀州藩主は、浅野長政の子、浅野幸長(あさのよしなが)で、関ヶ原の合戦では親子して東軍に参戦しています。
慶長13年(1608年)には、浅野幸長の娘・春姫(高原院)を徳川家康の九男・尾張大納言徳川義直に嫁がせているので、ミカンを送り、娘を家康の子に嫁がせるなど、徳川家への接近姿勢がよくわかります。

ミカンは、鎌倉時代に中国から伝えられた種類の「ホンミカン」(紀州ミカン)で、香りが強く種のある小形の実を結ぶのが特徴。
静岡地方のミカンの起源を知るうえで貴重なため、昭和25年に静岡県の天然記念物に指定されています。

令和3年には静岡雙葉高校の生徒4名が国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構果樹茶業研究部門(静岡市清水区)の協力を得て、DNAマーカーを使って葉のゲノム解析を実施。
その結果、ウンシュウミカンなど101種類あるかんきつ類と比較した結果、紀州ミカンであることが判明しています。
これまで、元々のミカンは大火で焼失し、別の品種の木が植えられた可能性もあるとされていましたが、徳川家康の植えたものかどうかは定かでないものの、当時の種類と同じだということがわかったのです。

例年12月の上旬に収穫され、配布されたり(日本平動物園来園者に配布など)、和菓子、マーマレードに加工など、毎年いろいろな用途で利用されています。

家康手植のミカン
名称 家康手植のミカン/いえやすてうえのみかん
所在地 静岡市葵区駿府城公園1-1
関連HP 駿府城公園公式ホームページ
電車・バスで JR静岡駅から駿府浪漫バスで15分、東御門下車
ドライブで 東名高速道路静岡ICから約5km。または、新東名高速道路新静岡ICから約9km
駐車場 市民文化会館地下駐車場(246台/有料)を利用
問い合わせ 駿府城公園二ノ丸施設管理事務所 TEL:054-251-0016/FAX:054-251-0056
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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