日光東照宮参道途中、五重塔近くにあるのが石鳥居(一の鳥居)。日光東照宮創建(徳川家康日光改葬)の翌年、元和4年4月17日(1618年6月9日)の造営の明神鳥居。高さ9.2m、柱間6.7m、柱の直径(太さ)3.6mの石鳥居で、花崗岩製。筑前国福岡藩初代藩主・黒田長政(黒田官兵衛の子)の奉納で国の重要文化財。
筑前国の可也山から花崗岩を運ぶ
徳川家康薨去の翌年となる元和3年9月、黒田長政(関ヶ原合戦で東軍に与して福岡藩初代藩主に)は国持大名(くにもちだいみょう)に取り立ててくれた家康の恩に報いるため、日光東照宮に巨大な石鳥居を奉納します。
黒田長政の治める筑前国(現・福岡県)志摩郡小金丸村の親山(おやま=可也山・かやさん/現・福岡県糸島市)で切り出した15個の石を海路で江戸湾まで運び、そして江戸川・利根川・渡良瀬川を遡り、さらに「御用川」と呼ばれた思川(おもいがわ)を使って小山・乙女河岸(問屋・山中八郎兵衛)までの舟運で、さらに陸路は丸太を並べた上で巨石を移動させ、壬生(みぶ)、鹿沼、今市を経て日光へと運んだもの。
日光山には諸大名が奉納した鳥居が随所にありますが、外様ながら筑前一国一円52万3000余石の大大名となった黒田家の繁栄の願いを込め(徳川将軍家への恭順の意思表示も)、石鳥居を奉納したものと推測できます。
そのかいあってか、その子、2代藩主・黒田忠之(くろだただゆき)以下福岡藩の歴代藩主・嫡子に対し、徳川将軍家は松平の名字と将軍の偏諱を授与しているのです。
まさに黒田家安泰をもたらした吉祥の大鳥居といえるのです。
石鳥居の「東照大権現」の扁額(畳1枚分の大きさ)は後水尾天皇の勅筆。
参道と鳥居の結ぶ方向は、真南から6度ほど東南に傾いていますが、日光東照宮本殿と鳥居の中心を結んだ線の延長上に江戸城があり、死して江戸を護るという徳川家康(東照大権現)の信念が秘められているのだとか。
石鳥居下の石段は、千人桝形と呼ばれていますが、10段の石段の各段に100人並ぶことができるのが名の由来。
10段ある石段ですが、じっくりと観察すると上に行くほど横幅が狭く、しかも段差も低くなっています。
これは、遠近法を巧みに使って、実際より高い石段と錯覚し、石鳥居を遠くに見せるための工夫(トリック)なのです。
江戸時代に造営された鳥居では日本最大規模を誇り、八坂神社(京都市)の石鳥居、鶴岡八幡宮(鎌倉市)の鳥居とともに「日本三大石鳥居」に数えられています。
ちなみに日光東照宮・上神庫の斜め前には、黒田長政の継室:栄姫(大涼院、保科正直の娘、徳川家康の母方の姪で家康の養女として長政に嫁いでいます)が奉納した燈籠一対もあり、奉納日は石鳥居と同じ元和4年4月17日(1618年6月9日)となっています。
石鳥居に刻まれている銘文
奉寄進 日光山
東照大権現御寶前石鳥居者 於筑前國削鉅石造
大柱而運之南海以達于當山者也
元和四年戊午四月十七日 黒田筑前守藤原長政
ここで注目したいのは、黒田筑前守藤原長政という名前。
黒田家は近江源氏の一族とされ、黒田孝高(黒田官兵衛)の墓碑には、「播州飾東郡人、姓源」と記されているのです。
しかし、鳥居には藤原長政と藤原姓を名乗っています。
福岡藩2代藩主・黒田忠之(くろだただゆき)は、家系図を作る際、黒田家には整った系図がなく、黒田孝高の祖父の名前ですらはっきりとしなかったのです。
徳川家康が恣意的に徳川家を名乗り、徳川家が源氏の系譜であることを主張するなど、大名家にも家柄を重んじる風潮が強まったことが推測できます。
日光東照宮・石鳥居(一の鳥居) | |
名称 | 日光東照宮・石鳥居(一の鳥居)/にっこうとうしょうぐう・いしどりい(いちのとりい) |
所在地 | 栃木県日光市山内2301 |
関連HP | 日光東照宮公式ホームページ |
電車・バスで | 東武日光駅から東武バス世界遺産めぐりで勝道上人像前下車、徒歩5分 |
ドライブで | 日光宇都宮道路日光ICから約4km |
駐車場 | 100台/有料 |
問い合わせ | 日光東照宮社務所 TEL:0288-54-0560/FAX:0288-54-0061 |
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