宇都宮城・清明台

宇都宮城・清明台

栃木県宇都宮市本丸町、宇都宮城の本丸の西半分を防災公園とした宇都宮城址公園の北西部に復元されたのが、宇都宮城・清明台(うつのみやじょうせいめいだい)。元和5年(1619年)に城主となった本多正純(ほんだまさずみ)が、事実上天守の代わりとした使った櫓(やぐら)で、現在のものは復元されたもの。

藩政時代の代用天守を平成19年に往時の姿に復元

宇都宮城・清明台

宇都宮城の建築物は戊辰戦争で失われ、堀なども戦後の復興計画で防災都市の観点から埋め立てられ、往時の雰囲気は失われています。
平成13年に策定された御本丸公園整備基本計画により、平成15年に始まった本丸土塁と櫓(やぐら)の復元工事で姿を取り戻したのが、清明台と富士見櫓(ともに平成19年3月25日竣工)。

徳川家康の側近として駿府の隠居時代にも活躍した本多正純(徳川秀忠の代に失脚)は、幕府の意向を汲み取って天守は設けずこ清明台を天守の代わりにしていました。

宇都宮城本丸には、日光の東照大権現参詣の将軍の宿泊施設である「御成御殿」が建てられ、譜代大名が次々と入れ替わり城主を務めていました(日光社参のために宇都宮城を訪れた2代将軍・徳川秀忠を本多正純が釣天井で暗殺を図ったという「釣天井事件」は、実話ではありません)。

江戸時代の絵図には2階建て瓦葺きで描かれ、広さ3間(5.9m)×3間半(6.9m)と記録され、櫓の土台部分もほかよりも高くなっています(そのため本多正純の改修時に代用天守にしたと推測されています)。
土塁と櫓の復元は、発掘調査で出土した遺構や絵図面などの城郭史料に基づき、構造や材質については各地に残る城郭建築の実例を参考にして設計、歴史性を重んじた伝統的な技法・材料で復元されてます。
瓦に関しても発掘調査で出土したものの意匠で製作され、往時と変わらない屋根になっているのです。

当然、時代によって姿は異なるため、復元のための史料・データが揃い、かつ本丸御殿などが存在していた江戸時代中頃の姿に復元(本丸の南北にあった清水門と伊賀門は敷地外にまたがることから残念ながら復元されていません)。

当時の土塁は、土を固くたたきしめながら少しずつ盛って築き上げましたが、今回の復元では建築法の問題などもあって外観と規模は江戸時代と同じですが、基本はコンクリート造りになっています。

堀の部分も幅が20m以上、深さは6m以上、水深は3mもありましたが、安全も考慮し、幅も深さも縮小されています(損壊を防ぐために、壁もコンクリートで覆われています)。

宇都宮城址公園(宇都宮城本丸)の北西に位置するのが清明台で、毎月第3日曜11:00〜14:00に特別公開され(事前に確認を/荒天中止、12月・1月は特別公開を富士見櫓に、公開時間を8:00〜に変更し、晴れていれば富士山を望見)、宇都宮城愛護会による歴史解説が行なわれています。

宇都宮城・清明台
温度・湿度を一定に保つ漆喰壁の白さが際立ちます
宇都宮城・清明台
名称 宇都宮城・清明台/うつのみやじょう・せいめいだい
所在地 栃木県宇都宮市本丸町2-24
関連HP よみがえれ!宇都宮城」市民の会公式ホームページ
電車・バスで 東武宇都宮駅から徒歩10分。JR宇都宮駅から徒歩20分
ドライブで 東北自動車道鹿沼ICから約8.8km。または、宇都宮ICから約10km
駐車場 宇都宮市役所東駐車場を利用
問い合わせ 宇都宮市都市整備部公園管理課 TEL:028-632-2529
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
宇都宮城

宇都宮城

栃木県の県都、宇都宮市にある宇都宮城は、江戸時代は宇都宮藩の藩庁となった城で、関東七名城にも数えられています。天正18年(1590年)7月26日、豊臣秀吉は宇都宮城に入城し、伊達政宗など東北や関東の諸将の拝謁を受け、戦後の所領措置(朱印状)

宇都宮城・富士見櫓

宇都宮城・富士見櫓

栃木県宇都宮市本丸町、宇都宮城の本丸の西半分を防災公園とした宇都宮城址公園の南西部に復元されたのが、宇都宮城・富士見櫓(うつのみやじょうふじみやぐら)。平成19年に本丸御殿などが存在していた江戸時代中頃の姿に復元されたもので、特別公開時には

 

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