江戸・日本橋から東照大権現(徳川家康)が祀られる日光まで続く「日光御成道」の、日本橋から2里目にあたる一里塚。徳川時代に設置されたままの往時の場所に残る貴重な一里塚ということで、国の史跡にもなっています。とくに都市化が進む都内では大変貴重な史跡。
2人の実業家によって救われた一里塚と榎
永久に保存しようと国の史跡となったのは、大正11年3月8日のこと。実はその直前、王子電気軌道(王電=現在の都電荒川線)の延長による道路改修工事が予定されて、西ヶ原一里塚も撤去される危機に。そのときに立ち上がったのが、実業家の渋沢栄一、滝野川町長・野木隆歓、地元住民です。
渋沢栄一(設立に尽力した王子製紙の工場を眼下にする飛鳥山に邸宅を構えました)や古河財閥の古河虎之助(旧古河庭園は古河虎之助男爵の邸宅として大正8年に完成)の寄付により、周辺の土地600坪を購入。土地を東京府に寄付し、飛鳥山公園の附属地としての保存が決まって一里塚は後世にのこされたのです。
江戸城虎の門の石垣を再生した石で「西ヶ原一里塚二本榎保存之碑」が建立されています。
残念ながら、その時に保存された往時の榎は枯れてしまい、現在のは新しく植えられたものです。
車の往来が多い本郷通りですが、滝野川警察署側の道が旧道(日光御成道)で、旧道を挟んで南北に塚があります。南側の塚の南を通る道(王子方面への車線)は新道です。
江戸時代、一里塚のすぐ近くにあった一本杉神明宮(下の江戸切絵図を参照)は、明治初年に神仏分離で七社神社(西ヶ原村鎮守で、別当である無量寺の境内にありました)が一本杉神明宮社地に移転してきたことにより、七社神社の摂社となっています。樹齢1000年以上といわれる巨杉の神木はすでに枯れていますが切株が現存しています。
日光御成道の1里目の塚は、本郷追分(文京区本郷)に、3里目の稲付一里塚は東京都北区赤羽西2丁目にありましたがいずれも現存していません。
1604(慶長9)年、江戸幕府が主要街道に1里(およそ3.9km)ごとの道の両側に塚を築かせ、榎(えのき)などを植栽しました。巨木の影は憩いの場になり、駕籠(かご)を利用する旅人にとっては、現在のタクシーのメーター代わり、つまりは駕籠賃の目安にもなったのです。
東京23区内には18ヶ所の一里塚がありましたが、当時の位置を保っているのは西ヶ原一里塚と志村一里塚(板橋区志村1丁目・板橋区小豆沢2丁目)の2つだけです。
江戸切絵図に見る西ヶ原一里塚
西ヶ原一里塚 | |
名称 | 西ヶ原一里塚/にしがはらいちりづか |
所在地 | 東京都北区西ケ原2-13・2-4地先 |
関連HP | 北区飛鳥山博物館公式ホームページ |
電車・バスで | 東京メトロ南北線西ヶ原駅から徒歩1分 |
問い合わせ | 北区飛鳥山博物館 TEL:03-3916-1133/FAX:03-3916-5900 |
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