近藤勇墓所

新撰組局長・近藤勇は、下総国流山(千葉県流山市)に駐屯した際に、新政府軍に捕縛され、当時、新政府軍の置かれた板橋宿まで連行され、板橋刑場で横倉喜三次、石原甚五郎によって斬首されています。首は京の三条河原で梟首(きょうしゅ)にされています。JR板橋駅前には永倉新八により建立された墓所が残されています。

近藤勇は板橋刑場で処刑され、京でさらし首に

明治元年1月3日の鳥羽・伏見の戦いで敗れた新選組は、幕府軍艦・富士山丸で江戸に戻り、2月28日、近藤勇は幕府から「甲陽鎮撫」を命じられ、近藤勇も大久保剛と偽名を使い、新撰組を甲陽鎮撫隊と改名。
甲府に向かう途中、3月6日、甲州勝沼の戦い(柏尾戦争)で板垣退助の率いる迅衝隊に敗北し、江戸に戻り、さらに下総国流山(千葉県流山市)に駐屯。
ところが大久保剛が近藤勇その人だとわかる者が新政府軍側にもいて、4月3日には甲陽鎮撫隊隊長・近藤勇を捕縛しています。

わざわざ京まで運んでさらし首にしたのは、逆賊の末盧と、徳川時代の終焉を世に示すため。
処刑された板橋刑場は、旧豊島群滝野川村三軒家の一里塚と接する一角にあったとされますが、現在は住宅地になっていて、どこにあったのかも判然としていません。
また、近藤勇も刑場ではなく、馬捨場で斬首されたともいわれるので、刑場としてどこまで機能していたのかも定かでありません。
首は京に運ばれ、胴体が現在の墓所(真言宗豊山派寿徳寺の境外墓地)に埋葬されたと伝えられています。

板橋駅前の墓所は、明治9年、永倉新八が建立。
碑文を揮毫したのは松本良順(「近藤勇宜昌 土方歳三義豊 之墓」と彫られていますが、「宜昌」は「昌宜(まさよし)」の間違いでなぜ「宜昌」としたのかは定かでありません)。
裏面には「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長 永倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横丁平田四郎右衛門」と記されています(現在は風化で判然としません)。

永倉新八は、松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番隊組長、撃剣師範を務めました。
甲州勝沼の戦い(柏尾戦争)の敗北後、近藤勇とたもとを分かち、会津藩の降伏後、松前藩士(150石)となっています。
明治6年、杉村治備と改名し、北海道・小樽へ移り、さらに明治15年から警察官僚・月形潔の招きで樺戸集治監(刑務所)の剣術師範を務めています。

近藤勇は、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)の百姓・宮川久次郎の三男で、多摩郡大沢村(三鷹市)の龍源寺の檀家だったことから、龍源寺にも墓があるほか、福島県会津若松市の天寧寺には土方歳三が遺体の一部を葬ったとされる墓があります。

板橋駅前の墓所は、「近藤勇と新選組隊士供養塔」として北区の有形文化財に指定され、菩提寺である寿徳寺と「近藤勇と新選組隊士の墓保存会」は、近藤勇の命日にあたる4月25日またはその直前の日曜日に『墓前供養祭』を行なっています。
またゴールデンウィークには『滝野川新選組まつり』も開催。
地元の新選組滝野川隊のパレードなどが行なわれます。

近藤勇墓所
名称近藤勇墓所/こんどういさみぼしょ
Tomb of Isami Kondo
所在地東京都北区滝野川7-8-10
関連HP北区観光ホームページ
電車・バスでJR板橋駅から徒歩すぐ
駐車場なし/周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ北区地域振興部 TEL:03-5390-1234/FAX:03-5390-1141
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
龍源寺・近藤勇の墓

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近藤勇生家跡(近藤勇産湯の井戸)

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近藤勇陣屋跡

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