二宮尊徳の墓

二宮尊徳の墓

江戸時代後期の経世家、農政家、二宮尊徳(二宮金治郎)。相模国足柄上郡栢山村(現・神奈川県小田原市栢山)に生まれ、小田原藩の藩命で下野国芳賀郡桜町の再建などに活躍し、安政3年10月20日(1856年11月17日)、下野国都賀郡今市村(現・日光市今市)で没。墓所は、東京都文京区本駒込3丁目の吉祥寺です。

当時の新聞報道によれば、昭和14年10月頃建立

二宮尊徳の墓

二宮尊徳を祀る神社は、生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市(報徳二宮神社)、仕法の地・栃木県真岡市(桜町二宮神社)と要地に建立されていますが、その墓所はあまり知られていません。

実は、没後84年にわたって埋葬されず、昭和14年まで吉祥寺に保存されたままになっていたのです。
二宮尊徳の評価が高まったのは、国粋主義的な機運の高まりの中、幸田露伴が明治24年に『二宮尊徳翁』を著してから。
この幸田露伴の著作の中で初めて薪を背負って読書をする「負薪読書図」が描かれています。
山縣有朋を中心に、忠君愛国的な考えから小学校に薪を背負った二宮尊徳像が立てられていきます。

軍靴が響く昭和14年、「幼い時代から日本国民の良き教材として偉大な役割を果し、尊敬の的となっている尊徳翁の遺骨が埋葬されず安住の地を得ていないことは偉人に対してこの上ない非礼でもあり、遺憾なことである」(『報知新聞』昭和14年9月24日付)という理由から中村本郷区長らが中心となって遺骨を埋葬したのが、吉祥寺に現存する二宮尊徳の墓。
『報知新聞』によれば、この吉祥寺の墓が、「報徳精神の聖地とし帝都の一名所にしようという運動が進められ着々具体化している」と記されています。

本来、二宮家の菩提寺は小田原の善栄寺。
二宮尊徳の子・尊行は、今市の如来寺に仮内葬し、善栄寺には二宮尊徳の歯と遺髪を納めたものの、遺骨そのものは曾孫(ひまご)の二宮徳の代になるまで納骨せずに手元にとどめたのだとか。

二宮徳は、吉祥寺を菩提寺と定めて、大正12年、東洋拓殖会社から南洋方面視察の旅に出発することになり、遺骨を吉祥寺に預けて出発。
途中、船内で病死したため、吉祥寺に保管されたままになっていたのです(当時の新聞報道では、小田原の報徳二宮神社・草山神職は小田原に遺骨がないことを否定しています)。

二宮尊徳の墓
名称 二宮尊徳の墓/にのみやそんとくのはか
Grave of Ninomiya Sontoku
所在地 東京都文京区本駒込3-19-17
関連HP 文京区公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ南北線本駒込駅から徒歩7分。都営地下鉄三田線白山駅から徒歩12分
ドライブで 首都高速5号池袋線護国寺ランプから約3.5km
駐車場 境内駐車場を利用
問い合わせ 吉祥寺 TEL:03-3823-2010
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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