東京都台東区と中央区の間を流れる神田川、隅田川に合流する直前、最河口部に架る橋が柳橋です。隅田川に両国橋(東京都選定歴史的建造物)が架かっていますが、柳橋も現在の両国橋と同様に、関東大震災からの復興計画で架橋された美しいフォルムの鉄橋で、昭和4年12月架橋。
永代橋のデザインをモデルにした、ローゼ橋
初代の橋は元禄11年(1698年)架橋で、神田川が大川(隅田川)に注ぐ河口部に位置することから
川口出口之橋と呼ばれ、近くに幕府の矢の倉があったのに因み、矢の倉橋・矢之城橋と呼んだともいわれますが、享保年間(1716年〜1736年)頃から、風流な柳があったことから、柳橋となり、一帯の町名も浅草柳橋になったといわれています(矢之城を柳の字に書きかえた、柳原堤の末にあるからという説もあり、定かでありません)。
吉原へ遊びに行く客たちを載せる「猪牙舟」(ちょきふね)の発着場でもあり、賑わったのです。
鉄橋に架け替えられたのは明治20年で、その鉄橋も関東大震災で崩落。
関東大震災からの帝都復興は、数年の間に東京市域だけでも国の担当142、東京市の担当313の橋、合計455もの橋を数年で架橋するという、前代未聞の大プロジェクトとなりました。
国が担当した隅田川六大橋(相生橋、永代橋、清洲橋、駒形橋、言問橋、蔵前橋)は、鉄道の橋梁設計などの経験から帝都復興院土木局長に招請された太田圓三(おおたえんぞう)が担当し、弟の詩人・木下杢太郎、作家・芥川龍之介、洋画家・木村荘八(きむらしょうはち)などの芸術家の意見を聞き(実際には役立たなかったとも)、景観に配慮したデザインとしています。
市内の運河・小河川向けには「復興局型」と呼ばれるラーメン橋台を考案し、形式の標準化を図っていますが、柳橋に関しては、隅田川沿いということもあって、永代橋のデザインをモデルにした、ローゼ橋(鋼鉄橋)で架橋。
橋長37.9mで、平成3年~平成4年には親柱を復元、花街にちなんで欄干に簪(かんざし)をあしらい、歩道には御影石を敷いています。
南側橋詰(中央区側)に、正岡子規が柳橋をテーマに詠んだ俳句「春の夜や女見返る柳橋」、「贅沢な人の涼みや柳橋」を記した石碑が立っています(句集『寒山落木』に掲載)。
昭和3年には料理屋、待合あわせて62軒、芸妓366名有した東京の花街のひとつで、新橋とともに「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)として賑わったのが柳町で、伊藤博文、平山郁夫が愛用したという安政元年(1854年)創業の「亀清楼」 (かめせいろう)もあり、文人墨客も多く訪れていました。
川の両岸に並ぶ屋形船が風流だった時代をしのばせますが、平成11年1月に柳橋芸妓組合解散し、江戸時代からの伝統と格式を誇った花柳界の歴史を閉じています。
文人・島崎藤村(しまざきとうそん)も明治39年10月〜大正2年2月の間、柳橋近く(浅草新片町一番地/現・台東区柳橋1-10)に居住し、『春』を『東京朝日新聞』に連載、『家』を『読売新聞』に連載、有島生馬の装丁で『千曲川のスケッチ』を佐久良書房から出版。
明治43年8月には妻・冬が四女を出産後死去し、次兄・広助の次女・こま子が家事手伝いに来ていましたが、大正元年半ば頃からこま子と事実上の愛人関係になり、藤村の子を妊娠させ、関係を絶つためにフランスへ渡っています。
柳橋 | |
名称 | 柳橋/やなぎばし |
所在地 | 東京都台東区柳橋1-2・中央区東日本橋2 |
電車・バスで | JR・都営地下鉄浅草橋駅、JR馬喰町駅から徒歩5分 |
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