両国公園・勝海舟生誕の地

勝海舟生誕の地(両国公園)

東京都墨田区両国4丁目、両国公園にあるのが勝海舟生誕の地(かつかいしゅうせいたんのち)の碑。山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる勝海舟は、文政6年1月30日(1823年3月12日)、江戸本所亀沢町、旗本小普請組(41石)の父・勝小吉(かつこきち)の実家である男谷家で生誕。

勝海舟が生まれ、7歳まで過ごした地がここ!

幼名は麟太郎(りんたろう)で、海舟は号で、佐久間象山直筆の書『海舟書屋』からとったもの。
父・勝小吉は、物乞いをしながら伊勢参りをしたり、文政2年(1819年)に結婚後も、「水戸の家来だ」と身分を偽って旅をしたりしていましたが、遠州(静岡県)から連れ戻され、父親に座敷牢に入れられて数年を過ごしています。
勝麟太郎が生まれたのは、その頃。
生家の男谷家で麟太郎は7歳まで過ごし、本所入江町(現・墨田区緑4-24)で暮らした後、安政6年(1859年)、赤坂(現・港区赤坂6-10-39)に転居しています。

天保9年(1838年)、37歳にして隠居し、16歳になる麟太郎へ家督を譲っています。

万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節がアメリカへ派遣されますが、このときの咸臨丸を指揮したのが軍艦操練所教授方頭取・勝海舟。
通訳のジョン万次郎、測量船フェニモア・クーパー号艦長だったジョン・ブルック大尉も同乗し、実際には勝海舟は船酔いで役に立たなかったという説もあります。

「江戸無血開城」へと導いた西郷隆盛と勝海舟の会談は、慶応4年(1868年)、三田にあった薩摩藩邸で。
東京メトロ・三田駅のA6出口近くに「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地」碑が立っています。
会談にあたって、勝海舟は、新政府軍の江戸侵入を阻止するため、そして少しでも時間をかせぐために江戸の町を焼き尽くす焦土作戦を計画していました。
薩摩藩邸と愛宕山での両者の会談で、新政府軍による江戸総攻撃は回避され、江戸の町は守られたのです。

勝海舟は晩年、洗足池の風景が気に入り、邸宅「洗足軒」を構えていますが、洗足池公園には勝海舟夫妻の墓があります。

ちなみに、両国公園は、勝海舟の生誕の地であることから整備された公園で、平成27年度に歴史文化公園整備事業で整備されたもの。

両国公園・勝海舟生誕の地
名称 両国公園・勝海舟生誕の地/りょうごくこうえん・かつかいしゅうせいたんのち
所在地 東京都墨田区両国4-25-3
関連HP 墨田区公式ホームページ
電車・バスで JR・東京メトロ両国駅から徒歩7分
駐車場 なし/周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 墨田区道路公園課 TEL:03-5608-6597
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

江戸開城 西郷南洲 勝海舟会見の地

新政府軍の江戸城総攻撃は、1868(慶応4)年3月15日に予定されていました。その前日、3月14日、東征大総督府下参謀・西郷隆盛と、旧幕府徳川家陸軍総裁・勝海舟の会談が、田町の薩摩藩邸(蔵屋敷)が行なわれました。薩摩藩蔵屋敷跡は、三菱自動車

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