中里富士山

中里富士山

東京都清瀬市中里3丁目、住宅街のなかにポツンと残る小山が、中里富士山。江戸時代に隆盛した富士講の信者で、当時の中里村の講中が築いた富士塚。富士山に登ることができない人でも、同じ功徳を得られるということで築かれた富士塚で、東京都の文化財に指定されています。

「丸嘉講武州田無組中里講社」が築いた富士塚

江戸での富士講の隆盛を背景に、文化2年(1805年)、中里村にも富士講の講中である「丸嘉講武州田無組中里講社」が誕生。
文政8年(1825年)に築造した富士塚が、現存する中里富士山です。
直径15mほどで、明治時代に2mかさ上げしたため、現在はおよそ9mの比高。

丸嘉講は赤坂伝馬町の商人、近江屋嘉右衛門(菊行道寿=その師は食行身禄の次女・食行万)を講祖とする富士講(講印は○のなかに嘉)。
富士講の隆盛とともに享保18年(1733年)に嘉右衛門の弟子・赤坂善行道山から田無の秀行道栄に伝えられ、秀行道栄の熱心な布教により、現在の練馬区、西東京市、保谷市、武蔵野市、三鷹市、小金井市、小平市、東久留米市、清瀬市、東大和市など広範囲に広がっていきました。
中里講社など、地域単位で講中が組織され、8回以上富士山に登拝すると先達(せんだつ=リーダー)となったのです。
とくに田無組は団結力があり、夏山の登拝時期には100人もの選抜された信者が列を成し、富士山へと向かったのです。

中里富士山(富士塚)の北側が登拝口で、鳥居をくぐると、登拝道が九十九折りに続き、小さな石柱が1合目から9合目までを表しています。
山頂には神仏習合時代を反映して、石製の小祠と大日如来を刻んだ石碑を配置。
往時は胎内巡りを模した洞窟も設けられていましたが、現在は閉ざされています。

毎年9月1日に、中里富士山を舞台にして『火の花まつり』(東京都の無形民俗文化財に指定)も行なわれています。
中里富士山の登拝道に108本のろうそくが立てられ、富士講の人たちが「お伝え」と呼ばれる経文(勤行教典)を唱えた後に、富士山をかたどって積み上げられた麦わらに火をつけるお焚き上げで、毎年8月26日・27日富士山の山終いで行なわれる『吉田の火祭』(国の重要無形文化財)の中里版ともいえるもの。

東京都練馬区大泉町の八坂神社脇に中里の富士塚(大泉富士)がありますが、明治初期(あるいは江戸時代)に丸吉講(まるきちこう)によって築かれたもの。
丸吉講は、天保2年(1831年)、新座郡片山村の浅海吉右衛門(行名・蓉行芙厚)が開いた富士講です。

中里富士山
名称 中里富士山/なかざとふじさん
所在地 東京都清瀬市中里3-991-1
関連HP 清瀬市公式ホームページ
電車・バスで 西武鉄道清瀬駅から徒歩20分
問い合わせ 清瀬市秘書広報課広報広聴係 TEL:042-492-5111/FAX:042-492-2415
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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