板橋宿・縁切榎

板橋宿・縁切榎

東京都板橋区本町、街道時代の中山道板橋宿にある伝説の榎が、縁切榎(えんきりえのき)。石神井川を渡る板橋の北に続く、仲町商店街の一画にあり、幕末の文久元年(1861年)、皇女和宮が14代将軍・徳川家茂に嫁ぐ際の行列は、縁起が悪いということでわざわざ迂回したと伝えられています。

「悪縁を絶ち、良縁を生む」パワースポット

板橋宿・縁切榎

江戸時代、金指近藤家2代目で、旗本で鉄砲頭・近藤貞用(こんどうさだもち=近藤登之助/旗本退屈男のモデルとも)の抱屋敷にあった榎(えのき)と槻(つき)が中山道から垣根越しに見え、榎が「えんの木」とも読まれることから「縁が尽きる」、転じて「縁切り」に結びつき、祟り場として忌み嫌われるようになったのです。

近藤貞用は、奥浜名の金指出身の旗本で、水野成之ら旗本奴とともに日本の侠客の元祖ともいわれる幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)ら町奴(まちやっこ)たちの暴挙を制圧しています。
歌舞伎『極付幡随長兵衛』にも描かれる事件ですが(歌舞伎では近藤登之助として登場)、権力側の旗本対町民側の町奴の対立という図式でもあるので(芝居小屋で無法を働く侍に対して、さっそうと現れた町奴・長兵衛が事件を上手に収束させる)、こうした祟り場伝説が生まれたのかもしれません。

まさに江戸時代の都市伝説ですが、庶民の間では、男女の悪縁を切ることだけでなく、断酒などが祈願されたとのこと。

現存する縁切榎は3代目。
近年では「悪縁を絶ち、良縁を生む」とされ、東京屈指のパワースポットに。
小さな社の前にはガチャガチャ式の「縁リセットみくじ」が置かれ、縁切榎の近くのそば屋と美容室では絵馬(プライバシー保護シール付)なども販売されています。

近藤貞用は、元禄9年(1696年)、故郷の金指陣屋で没し、金指近藤家の菩提寺・初山宝林寺(現・浜松市北区細江)に葬られています。

板橋宿・縁切榎
名称 板橋宿・縁切榎/いたばしじゅく・えんきりえのき
所在地 東京都板橋区本町18
関連HP 板橋区公式ホームページ
電車・バスで 都営地下鉄板橋本町駅から徒歩5分
問い合わせ 板橋区くらしと観光課 TEL:03-3579-2251/FAX:03-3579-7616
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
志村一里塚

志村一里塚

慶長9年2月4日(1604年3月4日)、徳川家康が我が子・秀忠に命じて江戸・日本橋を起点とする全国の街道沿いに、1里(4km)毎に築かせたのが一里塚。街道の両側に対になって塚を築きその上に木を植えましたが、板橋区の志村一里塚は、東京都内では

板橋宿・板橋

板橋宿・板橋

東京都板橋区、かつての中山道板橋宿を横切る石神井川に架る橋が、板橋。地名の由来にもなった橋で、平安時代にはすでにあったものとされる歴史ある橋。現在の橋は、石神井川の河川改修後の昭和47年の架橋(かつての蛇行部分が石神井川緑道)。板橋周辺の石

初山宝林寺

初山宝林寺

静岡県浜松市北区細江町、奥浜名に建つ黄檗宗(おうばくしゅう)の寺が、初山宝林寺(しょさんほうりんじ)。黄檗宗開祖・隠元とともに来日した明国の僧・独湛性瑩(どくたんしょうけい)が金指近藤家2代で、旗本・近藤貞用(こんどうさだもち)の尊崇を得て

日本三大縁切稲荷

日本三大縁切稲荷とは!?

栃木県足利市の門田稲荷神社、東京都板橋区・旧板橋宿の榎木稲荷(縁切榎)、そして全国の稲荷社の総本宮である京都・伏見の伏見稲荷大社が、日本三大縁切稲荷。良縁を結ぶには、まず悪縁を断つということでも縁切りは重要で、男女間の縁だけでなく、病気、仕

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ