東京都中央区日本橋室町1丁目、日本橋の北詰、国道14号を隔てて、日本国道路元標複製の反対側(東側)に立つのが、日本橋魚市場発祥の地碑。江戸時代、佃島の漁師たちがここで魚を売り始めたのが日本橋魚河岸(にほんばしうおがし)の始まりといい、1日に千両が落ちるというほどの賑わいをみせました。
日本橋の北詰にあった日本橋魚河岸の跡
天正18年(1590年)、徳川家康の江戸入府に伴い、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区)の漁師・森孫右衛門とその一族配下の30数名を江戸に呼び寄せ、佃島を造成。
江戸近辺で漁業を営みましたが、漁獲高が豊富で、武家には鯛などの高級魚を献上、さらに余った魚を幕府の許可を得て、佃島からの水運の便の良い日本橋河岸で板船とも呼ばれる販売用の板の上に魚介類を並べて、行商を開始。
これが日本橋魚河岸の始まりとされています。
板船には、一枚ごとに販売権があったため、有力商人が所有。
当初は河岸にありましたが、その後、市場規模の増大とともに魚を貯蔵する納屋の庇下に移動し、さらには店前での商いへと変化していったのです。
往時には本船町から本小田原町一帯(現在の日本橋本町1丁目、日本橋室町1丁目)に広がる広大な市場で、江戸・東京の食生活を支えました。
江戸前と呼ばれた江戸湾のみならず、房州・上総・下総(千葉県)、相州(神奈川県)、遠州・豆州(静岡県)からも魚が運ばれ、18世紀に入ると江戸は人口100万人を超えたことから、魚市場も大いに繁栄したのです。
俗に江戸で「一日千両」といわれたのは吉原遊郭、堺町・葺屋町(現・日本橋人形町)の歌舞伎小屋、そして日本橋魚河岸の3ヶ所。
そのため、江戸随一の地代となり、豪商が屋敷を構えたのです。
松尾芭蕉の後ろ盾となり、「芭蕉庵」を提供した杉山杉風(すぎやまさんぷう)も幕府御用を務めた魚問屋・杉山賢永の長男。
実は、芭蕉庵も深川六間堀の生簀の番屋を再生したもの。
そんな繁栄を誇った日本橋魚市場ですが、関東大震災を受けて、大正12年、焼失した日本橋魚市場は築地の海軍ヶ原と呼ばれた築地海軍技術研究所用地に移転しています(正式には昭和10年、東京市中央卸売市場として開設)。
移転に10年以上も要したのは反対派が多かったため。
その築地からも多くの反対を受けながら平成30年10月6日、豊洲に移転しています。
歌川広重が描いた『東都名所』日本橋真景并ニ魚市全図
川を往来する細長い船は、鮮魚を高速で運ぶための押送舟(おしおくりぶね)です。
日本橋魚市場発祥の地碑 | |
名称 | 日本橋魚市場発祥の地碑/にほんばしうおいちばはっしょうのしひ |
所在地 | 東京都中央区日本橋室町1-8-1先 |
電車・バスで | 東京メトロ三越前駅からすぐ、日本橋駅から徒歩3分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
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