東京都世田谷区豪徳寺2丁目にある世田谷区で唯一の歴史公園が、世田谷城址公園。中世、世田谷吉良氏の居城・世田谷城の城跡で、吉良御所、世田谷御所と呼ばれていました。小田原の後北条氏と親戚関係を結んだ吉良氏の城跡には、土塁や丘、壕が残され、中世の城郭の雰囲気を伝えています。
中世に世田谷一帯を領有した世田谷吉良氏の居城
吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国幡豆郡吉良庄(現・愛知県西尾市吉良町)に発祥。
『忠臣蔵』で有名な高家肝煎(こうけきもいり=江戸幕府における儀式や典礼を司る役職の長)・吉良上野介(きらこうずけのすけ=吉良義央・きらよしひさ)もこの吉良氏の本流。
世田谷吉良氏はその庶流で、吉良貞家が室町幕府の要職を歴任した後、奥州探題となって陸奥国に下向し、勢力を拡大。
3代将軍・足利義満の治世に、奥羽が鎌倉府の管轄になったことで、吉良治家は奥州からの撤退し、世田谷と蒔田(現・横浜市南区蒔田町)に居を移し、鎌倉公方に仕えるようになりました。
世田谷城の築城時期は定かではありませんが、吉良治家が鎌倉・鶴岡八幡宮に宛てた寄進状に、永和2年(1376年)の段階で、吉良氏の領地が世田谷郷内にあったことが判明していますが、世田谷を本拠としたのは応永33年(1426年)になってからです。
小田原の北条氏は、世田谷吉良氏が将軍家・足利氏の一族であることを重視し、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言で有名な後北条氏第2代・北条氏綱(ほうじょううじつな)は、江戸城を攻略後、その娘を、吉良頼康(きらよりやす)に嫁がせ、懐柔しています。
北条氏からは諸役を免除され、吉良家独自の印判を用いることが認められるなど、特別な待遇が与えられていました。
吉良頼康の後継には、遠江今川氏の今川貞基(いまがわさだのぶ)と北条氏綱の娘との間にできた北条氏朝を迎えて、吉良氏朝(きらうじとも)に。
永禄3年(1560年)、世田谷城主となった吉良氏朝のもとには、前代に続き、北条家の娘(鶴松院(かくしょういん=氏康の従妹にあたる女性を養女にしたとも)が嫁いでいます。
天正6年(1578年)には後北条氏第4代・北条氏政(ほうじょううじまさ)が新たな宿場(世田谷新宿)を開き、楽市を開いていますが、この楽市が現在の『ボロ市』のルーツにもなっています。
北条氏と姻戚関係の吉良氏朝は、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で下総国・生実(おゆみ=千葉市中央区生実町)に逃れ、徳川家康の関東入封後は家康に仕え、吉良氏朝の子・吉良頼久は、天正19年(1591年)、上総国長柄郡寺崎村で1120石の所領を与えられています。
その結果、世田谷の大部分が天領に、そして世田谷城は廃城に。
世田谷城の城域は定かでありませんが、城内には吉良氏ゆかりの弘徳院(豪徳寺の前身)が建ち、現在の豪徳寺付近に本丸を構え、世田谷城址公園まで城郭に取り込んでいたと推測されています。
世田谷城址公園(世田谷城) | |
名称 | 世田谷城址公園(世田谷城)/せたはやじょうしこうえん(せたがやじょう) |
所在地 | 東京都世田谷区豪徳寺2-14-1 |
関連HP | 世田谷区公式ホームページ |
電車・バスで | 東急電鉄宮の坂駅から徒歩5分 |
駐車場 | なし/周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 世田谷区北沢公園管理事務所 TEL:03-5431-1822/FAX:03-3412-6847 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag