平賀源内墓所

平賀源内墓所

東京都台東区橋場2丁目、隅田川に架かる白鬚橋(しらひげばし)の西側にあるのが平賀源内墓所。平賀源内は、小伝馬町の牢内で獄死、曹洞宗・総泉寺に葬られましたが、総泉寺が関東大震災で焼失し、小豆沢(板橋区)に移転したため、墓所だけが残されたのです。国の史跡に指定。

関東大震災まで橋場にあった総泉寺の旧境内に墓所が

平賀源内墓所
平賀源内先生顕彰会建立の石碑

平賀源内は、讃岐国寒川郡志度浦(現・香川県さぬき市志度)の出身。
大坂、京で学んだ後、宝暦6年(1756年)に江戸で本草学者・田村藍水(たむららんすい)に弟子入りしています。
明和7年(1770年)、破損したエレキテルを長崎で入手。
宝暦11年(1761年)から江戸・深川清住町(現・東京都江東区清澄1)の自宅で、長崎で手に入れたオランダ製の静電気発生装置エレキテルの構造を解明し、たびたび実験(ただし、その原理は理解していません)。

安永8年(1779年)夏には橋本町の邸に入って大名屋敷の修理を請け負い、酔った勢いで大工2名を殺傷し、投獄。
その後、安永8年12月18日(1780年1月24日)、破傷風により獄死。
杉田玄白が葬儀を執り行ない、墓の隣に彼を称える「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)を詠んでいます。

墓地周辺の築地塀は、総泉寺移転後の昭和6年、松平頼寿(まつだいらよりなが=平賀源内の故郷、旧高松藩主松平頼聰の八男)が整備したもの。
昭和4年、平賀源内没後150年を機に松平頼寿を会長に、平賀源内先生顕彰会が設立され、築地塀を築き、石碑を建立しています。

ちなみに関東大震災まで総泉寺は広い境内地を有し、南に残るお化け地蔵も境内地でした。

画像協力/台東区

平賀源内が「土用の丑」の風習をつくったは、うそ!?

土用の丑の日に鰻を食べる風習は、もっとも鰻が売れない夏場にその対策として平賀源内が出したPRのアイデアとの説もありますが、裏付けはなく、まったくの俗説。

文政7年(1824年)に大坂で出版された『江戸買物独案内』には、神田の春木屋善兵衛という鰻屋が土用の丑の日の鰻を広げたと記されています。

平賀源内墓所
名称 平賀源内墓所/ひらがげんないぼしょ
所在地 東京都台東区橋場2-22-2
関連HP 台東区公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ・つくばエクスプレス南千住駅から徒歩20分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 台東区観光課 TEL:03-5246-1151
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

平賀源内電気実験の地

平賀源内は、江戸・深川清住町(現・東京都江東区清澄1)の自宅で、長崎で手に入れたオランダ製の静電気発生装置エレキテルの構造を解明し、たびたび実験しています。その実験の地近くに「平賀源内電気実験の地」碑が立っています。平賀源内は壊れた実物を長

平賀源内旧邸

江戸時代の発明家として有名な平賀源内。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家として、多彩な才能を発揮した平賀源内は、讃岐国寒川郡志度浦(現・香川県さぬき市志度)の出身。平賀源内の実家「平賀源内旧邸」が

平賀源内記念館

平賀源内は、江戸中期の1728(享保13)年、高松藩の白石茂左衛門の三男として志度浦(現在のさぬき市志度)に生誕。発明家、科学者、文学者、芸術家として独創的な能力を発揮した人物で、その平賀源内の遺品を集めて一般に公開しているのが平賀源内記念

 

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